徒然文・画家の眼 (公式サイトより抜粋)


 国際情勢を見ると確実にグローバル化が進んでいることがよく分かる。インターネットの普及により、瞬時に情報を収集できることがその大きな要因であろう。便利ではあるが、人間社会にとって本当に幸せなことなのか疑うことも多い。インターネットを知らない方がかえって幸福なこともあり得るのである。世の中の現実を知りすぎてしまうと、自分の境遇に不満を抱き、現状把握ができずに苦しむことになるのである。今世界中で起きている大事件の大半は、これらが起因していると言っても過言ではないであろう。知りすぎたことにより不満が鬱積し、それが爆発したと考えられる。今世界中を恐怖に陥れている IS国と称する大事件の一連のことである。この他にも一触即発問題を抱えた共産国家の一連も然りである。インターネットの出現により危機感を煽られている国家にとっては統制を乱す器機にもなっている。インターネット上には有益・無益・有害など様々な情報が流れているが、統制しない自由の世界というのが世界共通の認識である。利用するのは個人の責任で行うということである。世代によって利用度が違うのは、現実を肯定的に見るか、否定的に見るかによって大きく異なってくる。ここまで普及してくると否定論者は肩身が狭くなるのも必至であろう。メディア・リテラシーとか情報リテラシー・科学リテラシー・文化リテラシー等々の新造語にあるように、それを使う側である個人の情報処理能力を高めることが必然である。またインターネットにある自由の世界を統制しようとすると、かえってその弊害が生じる危険がある。無秩序のようで実は均整がとれたバーチャルリアリティーの世界なのである。人間に良心がある以上、極端に道を外れることなどはあり得ないというのが、全人類の共通な認識なのである。もはや個利個略の通る国際社会は無くなりつつあるのである。


                                         2016.01.04



  今の日本の情勢を鑑みるといささかの不安を覚える。世代の断層が著しく、日本文化の継承が危ぶまれるのである。伝統的な芸術活動に参加をする若者が激減している。目先の現象に囚われ過ぎる若者にとっては興味を欠く分野かも知れない。損得勘定を抜きにしてトライしてみようとする気概が見られない。魅力のない陳腐な活動だと捉えられているとしたら真に残念なことである。絶えさせてはいけない日本文化は、官民一体となって再構築する必要がある。やっているのは老人ばかりでは余りにも寂しいことである。世の中、余裕のない証拠でもある。後世に繋げていかなければならない日本文化は、強烈な後押しがあってこそ実現できるものである。そのことに早く気づいてほしいと願わざるを得ない。


                                         2016.01.05



  2016の新年早々、またもや重大事件が発生した。北朝鮮による核実験強行の件である。国際社会の認識を大きく打ち砕いた暴挙である。まさにならず者の行動としか思えない。国家としての体を成していないのである。近隣国の日本にとっては、全くもって迷惑千万な行動である。断固非難すべき大事件である。今までの経過からすると非難しても何ら効果がなかっただけに、強烈な対応策を講じない限り糠に釘であると思える。国際社会の秩序が大きく低下してしまった現在、何に期待したらよいのか皆目分からないのが実状であろう。国連も米国も権威が大幅に落ちている中、期待する方が土台無理なのである。他力本願は諦めて自力本願でいくしか方法の選択肢がないのが現状である。これを機に自主防衛を根本的に見直す必要があるのではなかろうか。憲法問題、安保問題などの自国防衛の根幹に関わる重大問題を国民一人一人が真摯に受け止め、再構築をしていかない限り、日本に恒久的な平和は訪れないのではなかろうかと、やきもきしている今日この頃である。


                                         2016.01.07




  自分が自ら発信した情報が正当に拡散していくならば嬉しいことであるが、現実はそんな甘いものではない。情報を発信したがために、とんでもない方向に進展してしまうことがよくある。それも発信者の自己責任であると括ってしまうとあと後に尾を引くものである。逆の立場である情報受け取り側に立つと、どの情報が正しいのか判断に迷いながらも、結局は自分の都合のよいように受け止めることになる。情報の真意が間違って拡散することに耐えられないと感じたならば、一切情報を発信しないようにするしかない。自分に関する情報は自分からは発信しないという固い信念で取り組めば、ほとんどの場合はそれでいけると思う。しかしながら現実の世界はそんな簡単ではないのである。自分の知らないところで自分の情報が流れているのである。インターネットで自分の名を検索すると、一つや二つは必ずヒットするものである。諸々のしがらみが意図しない情報を自然に流布してしまう。これが絶対に嫌だと思ったら、現実逃避をするしかないのである。しかし、それは不可能というものである。あまり神経質にならないで、まあ、こんなものかと目を瞑るぐらいの方が気楽である。それでも煩わしく思う人は PC に触らないことである。間違っても、今流行りの SNS などには、興味を持たないことである。




                                         2016.01.20



  世の中がこれほどまでに情報化してくると、神秘性や敬謙性が薄らえてしまい、何をたよりに何を信じてよいのかに迷いが生じるものである。現在進んでいる若者の出世志向の欠如、海外への留学熱の低下、政治無関心派の若者達、伝統文化無関心派の若者達、 等々の不安定要素を生み出している要因かも知れない。何をやっても先が読めてしまうのである。汗水流しての体験が無意味に思えてしまうのである。夢のある未来が幻影としか映らなくなったとしたら、世の中、益々衰退の道を歩むことになる。日本全体にとっても大きな損失である。しかしながら、この現象は日本だけのことではなく、世界的傾向のようである。覚めてしまった若年寄りでは未来は明るくない。ただ、こんなことを指摘していても何にもならないわけであるが、先ずは認識をすることから次が始まるような気がするのである。


                                         2016.01.21



  メディアの報道の中では、よく民意という言葉が出てくるが、これほど曖昧さの残る語彙はない。匙加減で何とでもなってしまう意味合いがあるのである。政局に大混乱が生じると、新聞社やテレビ等のメディアがよく世論調査を実施して、その結果を報じているの見ると当にそれが言えるのである。回答者の選出によっても、質問の内容によっても、また集約の仕方によっても如何様にもなってしまう曖昧さがあるのである。新聞社の報ずる結果などは、発表を待つまでもなく予想がついてしまう。メディアリタラシーのない者とっては、その結果を鵜呑みにしてしまうことにもなるのである。国会前で約10万人の人々が抗議のためのデモに参加している・・・などの報道もメディアの匙加減で如何様にもなってしまう。警察庁の発表では約1万人がデモが国会前で抗議・・・この数の差は一体どれが正しいのかなどはこれに当てはまる。国会前でデモする人々が国民全ての意見であるとか、それが民意であるなどと誇張して報じるメディアには怒りを覚える。表立って行動をしない国民の方が圧倒的に多いのである。それでは何をもって民意といえるのかとなると簡単には括ることができない。ただ言えることは、簡単にある出来事に対して、それが民意だなどと報じてほしくないのである。大衆受けに躍起になり、しかもそれが使命だと勘違いをして、胡坐をかいているメディアなどにその傾向が大である。



                                         2016.01.22



  音楽と美術は共に芸術分野の主要を占めている。音楽は音感を主な媒体にした表現であり、美術は視覚を主な媒体にした表現である。共に五感を使うことが共通しているが、似て非なるものである。共に傑出した人物は芸術家として尊ばれ、しかも歴史に名を残すことができる。ここまでの道のりは、両者に全くの接点が見当たらない。その他の顕著な相違は、音楽家は非常に若いうちにその能力を発揮することが多いが、美術家は中年以降の場合が多い。理由をわざわざ説明するまでもないであろう。感性の磨きが早いうちできる音楽に対して、磨きに時間のかかる美術の違いである。音楽は抽象性の高い表現であり、美術のように具現化はできないことがメリットとして存在する。それに対して美術は、抽象表現もできるが具体表現のほうがより効果を発揮しやすい。色と形に具現化が容易であることがメリットとしてある。しかしながら、両者にとってメリットがデメリットにもなるわけで、共に譲り合うことなど全くないのである。一部共通感覚も存在する。リズム、ハーモニー、バランスなどの音楽的な感覚は美術においても大切な要素になる。画家で演奏家であったパウル・クレーは、この感覚を駆使して、実に音楽的な作品を多く残している。彼がどちらに重みを賭けていたのかを知りたいものだが、今となっては過去の人物であり、知る由もない。しかし、本人は画家として歴史に名を残しているのである。


                                         2016.01.23



  アーチストやアルチザンの中には大別して二通りのタイプが見られる。一攫千金を狙うような一発勝負屋に近いタイプとじっくりと進展を狙うタイプの両極端のことを意味する。通常、両方にバランスをとって取り組んでいる場合が多いが、本題では例外としたい。画期的な創造はアーチストから生まれ、それを大衆用にアレンジするのがアルチザンとも言える。創造性の高さから言えば、アーチストの方に当然軍配が上がる。アーチストが芸術家とも呼ばれる所以である。一見すると両者の違いは判らないところがあるが、熟慮すれば分かるはずである。さて、本題の二つのタイプの話に戻すことにする。一攫千金型の代表は、アメリカ表現主義の代表的画家と言われるジャクソン・ポロックを挙げることができる。まさに一発勝負師的な人生であった。有名にはなったが作品を次に繋げることが出来ず、苦悩の日々を送っている。それに対してじっくりタイプの画家は何といってもパブロ・ピカソを挙げることができる。晩年までコンスタントに制作を続け、安泰した人生を送っている。どちらのタイプが理想かは、人それそれれの価値観によるものであり、穿鑿する必要もないであろう。そう言えば、ピカソで思い出す逸話がある。20世紀の初頭、キュビズム運動を先駆したピカソと、その盟友であるジョルジュ・ブラックの話である。二人とも非常によく似た作品を造っているが、決定的に違う点をブラック自身が述べている。ブラック曰く、「 ピカソの作品は粗過ぎる 」、「 もっと丁寧に描くべきだ 」と指摘している。そう言われてみると確かにブラック自身の作品は肌理細やかである。ピカソはブラックの言葉に反論をしたという形跡はないので、これは単なる陰口だった可能性もある。しかし、ピカソは、当にアーチストの典型的様相を如実に示しており、それに対してブラックはアルチザン型であったことは誰の眼にも明らかである。しかし、二人は共にアーチストとして、歴史に名を残しているのである。


                                         2016.01.24


 
 20世紀の初頭、スペインでは二人の希にみる画家を輩出している。その二人というのは、ピカソとダリのことである。正式にはピカソの方が23歳年長であり、親子のような年齢差があるが、大きなスパンで見れば同時代といってよいだろう。何故二人を取り上げたかというと、余りにも似て非なるものが見られ、興味を注がれたからである。その相違点を列挙してみよう。ピカソは幼少の頃から大人顔負けの表現力を身につけていた。一方のダリは、幼少時にはピカソ程の表現力を身につけていなかったこと、・・・・ピカソにとって写実的な表現は、すでに身につけてしまい、次なる表現を目指したこと。それがピカソらしい天真爛漫な表現、一般には分けのわからない絵に突き進むことになるのである。一方、若い頃のダリには写実表現に自信が見られないのである。、そのために彼は、写実力を身につけるため徹底したスケッチ・デッサンを繰り返すことになるのである。ダリ曰く、偏執狂的に身近なものを描いたと言っている。・・・・新しい表現を目指すピカソは、当時の実験的絵画であったキュビズム運動に傾倒することになるのである。ピカソについては、誰もが承知の通りであるので詳細は省く。一方のダリは徹底した素描を身につけ、自信を得たことから次のステップへと模索するのである。徹底した写実主義は、既にフランスの画家・クールベが1世紀前に起こしているため、次なる方向を探っていた。ちょうどその頃、写実的表現が活かせる超現実主義 (シュルレアリスム) の運動が起きたことをよいチャンスと捉え、それにのめりこむことになるのである。シュルレアリスムというとダリが先駆者のように思われているが、実はそうではないのである。徹底した写実力を身につけたダリにとつては、最善の発表の場となったのである。しかし、後に彼は、その集団から除名を受けてしまうことになる。それがかえって彼を益々引き立てる結果にもなるのである。・・・・二人にとって、まるで真逆の方向に能力を展開していることが興味深い。ピカソにとっては写真のように描く表現には興味はないと思われる。何故なら彼にとっては簡単にできてしまうことなのである。一方、ダリはその表現を身につけるために全力を注ぎ、やっと身につけた賜物なのである。天性の能力差は言うまでもなく明らかである。しかし、現在では二人とも天才画家として崇められている。私生活では、何人かの妻をめとったピカソに対して一人だけの妻を終生愛したダリとの相違は、人間性の違いそのものなのである。英雄色を好むというが、天才と言い換えてみると、ピカソはその典型であろう。それに対してダリは偏執的努力家の典型と言えるだろう。



                                         2016.01.25




  私が取り組んでいる日本画の他、美術界全般に大きな変化が訪れていることは、ご承知のことと思う。顕著な例を思いつくままに挙げてみると・・・・


・ 後継者が育たないこと。( 日本画、洋画、彫刻、工芸 など )
・ 美術館へ訪れる観客が激減していること。
・ 作品の需要が激減していること。( 画廊、画商、その他美術商の破綻 )
・ 活動している層が高年齢層ばかり。
・ ファインアートを専攻する学生の激減
・ 少子化と相まって美術系大学存続の危機
・ 各種メディアの無関心派の増大
・ 公共事業に対する国や県・市の支援対策不足
・ メセナの不足や無関心派の企業
・ 活動の広がりは見られるが、スペシャリストの激減
・ 芸術の趣味化現象 ( ローレベルの文化 )
・ 日本伝統文化の喪失 ( 後継者不足と無関心派の増大 )
・ 余裕のない社会の表れ ( 実利追求型社会の偏向 )
・ 日本文化のアイデンティティーの喪失 ( CG 一辺倒の社会 )
・ やりがいのない社会の波及 ( 報われる社会の低下現象 )   
・ 美術公募展への出品者減少問題
・ 商業主義にのまれる純粋芸術       
                     etc.・・・・

 思いつくままに挙げたが、これらの問題はたった一人の力ではどうすることもできないものばかりである。多くの力が結集することを切に望みたい。



                                         2016.01.26




 ピカソが晩年に残した一言「 やっと子供のような絵が描けるようになった 」の意味するものは・・・・
ピカソは幼少期から専門家顔負けの作品を描いている。子供であっても子供の絵ではない。彼の父親は美術教師で美術を専門にしていた。もちろん自身も絵を描いていたのである。そのピカソに英才教育をしたという謂われも見当たらない。ピカソは父親の背中を見て知らずのうちに目覚めたのかも知れない。ピカソの描く絵を見て父親は驚嘆したようである。ピカソが13歳の時に父親は、画材道具をすべて息子であるピカソに譲るのである。それ以来、父親は二度とギャンバスに向かうことはなかったと言われている。専門教育を受けさせるために美術学校へ行かせることになる。しかし、ピカソにとって学ぶべきものがないと感じたのかどうかは、分からないが2年で中退することになる。その後の活躍についてはご存知の通りで、言うまでもないであろう。晩年まで20世紀を先取りする画家として功績を遺すのである。その彼が晩年「 やっと子供のような絵が描けるようになった 」と言ったのは、「 もう、おいしく料理して、人に褒めて貰う必要がなくなった んだよ 」、「 今までの束縛から解放されて、自由に料理ができるようになったんだよ 」と言っているよな気がしてならないのである。



                                         2016.01.27





 色彩の魔術師と呼ばれたフランスの画家・ピエール・ボナールは、次のような言葉を残している。
ある人から、「 貴方は色感が豊かで幸せですね 」とか「 画家は色の使い方で随分と悩むのに、貴方はもって生まれた天性があっていいですね 」などと言われた時に発した言葉が、大変印象的である。ボナール曰く、「 色なんて誰でも簡単に管理できるよ。コツさえ知ればね 」、「 色よりもっと難しいのは、別にあるよ。それは絵を描く前の発想や構想、構成、デッサン、情動 ( 怒り、喜び、悲しみ、驚き etc. ) などの諸問題の方がもっと大変で難しいよ 」など、それに近い言葉を残している。このボナールの発した言葉の真意をやっと理解できるようになった。それというのはパソコンを使うようになってからである。色は数値に置き換えることができることを・・・・ 発想、構想、構成、デッサン、情動などは数値に置き換えることは不可能 ( 現時点では ) であること・・・・このことは人工頭脳の開発で最難行の項目と同じである・・・・ボナールは既にそれを認識していたように思われるのである。
もちろん、パソコンの出現までは考えつかなかったと思うが・・・・



                                         2016.01.28





  美術界の大きな変化は前の文中でも述べたが、商業主義にのまれる純粋芸術の危機についてもう少し触れたいと思う。第2次大戦後、アメリカで起きた抽象表現主義の台頭と関連が大変深いのである。それ以前の美術界の中心がヨーロッパであったのが、この抽象表現主義の出現によって一変するのである。大きな特徴は、ヨーロッパのような完成度の高い作品は必要がなく、発想のよい、しかも大きい作品でアクティブな作品が幅を利かすようになるのである。粗削りで、一見すると粗大ごみのような作品に高い評価がつくようになる。懐が広いというか、大胆というか、米国人らしい価値観がこの美術界にも息づくようになる。アイデアのよい作品や変わったような作品、大胆な作品などはどんどん売れるようになる。ここにおいて作品を高く買い取るパトロンの存在が、大きくクローズアップされることになる。これについての詳細は、次の機会に述べることにする。簡単に売れない作品がアメリカではすぐに売れるという風評が立ち、ヨーロッパから移住する芸術家が続出した。今までの美術の拠点がバリからニューヨークに移るきっかけとなったのである。作品の完成度より、アイデアのある、変わった作品に高い評価がつくということは、技術のない若者にとっては生きる希望を与えてもらったことと同じである。ヨーロッパ中心の時代に比べると作品の質は確かに低下しているが、芸術家が普通に食べていける素地をつくった意義は大きい。当に芸術の価値観を大きく変えたのが、このアメリカ表現主義の出現であった。ポロックやデ・クーニングやジャスパー・ジョーンズなどの作家達はここで育っている。彼らの共通点は、大画面の作品で中心のない作品、アイデアの優先した作品、粗削りの作品 etc. が挙げられる。また、出来上がりのよさよりも作品を造る過程に高い到達目標があった。この考えは、後にハプニングとして受け継がれていくのである。本来で言うと売れない筈の純粋芸術が高い価格で売れるようになったことは、大変革である。しかし、メリットとデメリットの両面が大きく内在するのである。現在の美術界を考えると、デメリットの筈である商業主義が台頭し、その波にのまれ過ぎているきらいがある。若い作家を育てるという大義は薄れ、商品価値としてだけとらえている商業主義の現状がある。そのことから本来の芸術的意義に、強い危機感を覚えるのである。



                                         2016.01.29



 前回パトロンの出現について触れたので、その点についてもう少し深めて述べることにする。芸術家を目指す者にとっては、制作を続けていける生活の基盤なくしては続けられるものではないのである。ヨーロッパ全盛の時代は一部の貴族達の支援で成り立っていた。城の壁を飾るための絵画が主であって、一般の家庭に飾るものではない。芸術性の高さよりも、小奇麗で上手な絵を好んで収集していた。間違ってもアメリカ表現主義のような粗削りの作品などは、問題外であった。技術の未熟な作家の作品なども、同類で対象にはならないのである。そのような情勢の中、アメリカでは粗大ごみのような作品がどんどん売れるということを知ると、芽の出ない多くの作家たちはアメリカを目指すことになる。完成度よりも新しさやアイデアのよい、アクティブな作品に高い評価がつくようになるのである。それを仕掛けるのがパトロン達である。アメリカならではの開拓精神、旺盛の為せる技である。完成度の低い若手作家達にとっては、モチベーションを高める要因となるのである。またパトロン達にとっては、芸術性の高さ云々などは関係ないのである。新しさやアイデアをを最優先とし、特異な作品を商品価値として捉え、それに投資したのである。商魂たくましいアメリカならではの発想である。ニューヨークを拠点に、この流れが世界的に波及するのである。パトロンはよい意味では支援者として捉えられるが、本質は商魂がたくましい商売熱心の現れなのである。唯々新しさやアイデアがもてはやされると、それを極端にとらえる作家が出てくるのである。マルセル・デュシャンはその例であろう。フランスから夢高らかに渡米して、そのコンセプトを作品に取り入れるのである。ただの既成便器を作品として発表したり、概念だけを強調したオブジェを作成したりして、鑑賞者に強烈な、しかも、新鮮な驚きを与えたのである。この考えは後に、ハプニングとして受け継がれていくのである。びっくりするような突拍子な余興 ( パフォーマンス ) が、ハプニングとして芸術活動の一環として認められるようになるのである。出来上がった作品よりも過程に重みを置く考えは、後にコンセプチュアル・アート ( 概念芸術 ) として発展していくことになる。極端な例として、作品を作らない芸術・・・・作品の実体がなく、設計図だけが残る・・・・アイデアだけの痕跡 etc.
日本では川原 温 が、その世界的作家として名を残している。従来からあるアカデミックな芸術とアメリカ抽象主義を発端とする新しい芸術 ( 現代美術 ) が、パラレルに連動しているのが現在の美術界である。しかし、この二つが結集するような状況は、今のところ全くと言ってよいほど見当たらないのである。 



                                         2016.01.30



 前記の中で商魂たくましいアメリカのパトロン達の話を出したが、その考えは作家達の中にも着実に広がっていくのである。芸術を商品のように扱い、大量生産をすることにより利益を得ようとする作家が出てくるようになる。それが、ポップアートとして流行することになるのである。その旗手がアンディ・ウォーホルである。工場のような場所で大量に作品を生産して、それを大量に販売するのである。芸術活動というのは名だけで、それは一種の大量消費の原理を利用した会社のようなものである。漫画や広告、写真、版画、その他、あらゆる表現物を素材として扱い、商品化するのである。芸術を通して、着実に収入を得る方法を手に入れるのである。本来のあるべき芸術論からは大きくかけ離れた方法である。しかし、アメリカでは大衆に熱狂的な支持を受けるのである。この考えの核になるイデアは大量生産、大量消費の資本主義の根本思想に通じるものである。最早、この流れを止める方法はないのである。表現の自由がグローバル化している現在、好き嫌いに関係なく、受け止めるしかないのである。日本においては、村上 隆や奈良美智などがポップアーチストとしてその名を連ねている。


                                         2016.01.31




  前回の文章の中で、表現の自由について触れたので少し蛇足をしたい。芸術活動における表現の自由は、グローバル化され、世界的に認識されてきたと言ってもよかろう。この認識は芸術の分野においてのみという暗黙の了解がある筈だが、実際には国柄に大差があるようである。政治的あるいは民族的な問題が絡んでくると、単なる表現の自由では済まされない諸問題が発生するのである。そのよい例が、フランスで起きたイスラム教の風刺画や韓国慰安婦の像などの問題が挙げられる。表現の自由だからと言って、済まされない状況に陥る。後々に深い傷が残るようなことは、あってはならない。表現の自由の拡大解釈や中傷・履き違いなどは、厳に慎まなくてはならないのである。


                                         2016.02.01




  今や従来からあるアカデミックな美術と現代美術 ( contemporary art ) の両極が、パラレルに連動していること。そして、この二つが結集する状況にないことにも触れた。この状況が果たしてよいことなのかどうかは、今後の進展を注意深く見守っていく必要がある。簡単には結論を出すことのできない状況にあることを、先ずもって認識しておきたい。伝統を大事に繋げていくアカデミックな美術と、伝統を壊して新しいものをつくる現代美術とでは、価値観の相違が当に真逆なのである。進化すればするほどお互いに離れていくことになる。しかし、共通点としてあるものは、共に新しいものを造り出すという到達目標がある。これが二つを繋げ、そして、美術というカテゴリーの中で共有しているのである。現代美術が浸透する前は、アカデミックな美術オンリーの時代があり、各メディアは、競って記事にしたものである。現代美術の定義はいろいろな説があるものの、アメリカ抽象表現主義が大きく関わっていることは明白である。その現代美術は、商業化した芸術の追求が根底にあり、ともかく新しいもの、変わったもの、一目を引くものなどが尊ばれ、派手にマスコミを賑わすことになる。当然の結果として、各メディアもそれに便乗する形になるのである。地味なアカデミックな美術などは、見向きもされなくなる。それも時代の波だと、解釈すれば片づくかも知れないが、これで終わってしまってはいけない。何故ならば、人類の大切な遺産を捨てることになるからである。


                                         2016.02.02




  かっては盛んであった美術公募展に陰りが見える今日この頃である。この問題については、今まで何度も触れているので、認識事項としてあると思う。公募展の多くは、前出のアカデミックな美術がほとんどである。現代美術に押されてしまい、影を潜めるような感じすらするのである。昭和40年代を盛りに少しずつこの傾向にあるのである。その全盛期には、新聞やテレビ等のメディアが競って紙面やスクリーンに取り上げてくれたものである。今ではどうかと言うと、一部の官展系の流れをくむ N 展以外は見られないのである。このことからメディアの公平性に益々疑問を持つ結果となる。何故このような状況になったのかをいろいろと調べてみると、次のような結果が出てくる。
 大手の新聞社である A 社が、ある時突然に、今まで行っていた公募展評から一切、手を引くと発表したのである。その理由が、他力本願の美術界に喝を入れるためと発表しているが、本意は不明である。それに各社が右へ倣えの対応をすることになるのである。その頃丁度、現代美術が盛んになり、作家達自ら PR のためのパフォーマンスを繰り返し行っていた。その活力を見た A 社が、感動したのかどうかは定かではないが、公募展の受け身の姿勢に疑問を感じたのではないかとある。その情報の真偽は確かではないが、頷ける点も多々ある。新聞やテレビにも載らないような活動では、若者の気持ちを引き止めることは最早難しい。それが積もり積もりして、現在あるような公募展離れが始まったのではないかと思われる点である。現代美術作家のように自ら PR をせよと言っても無理な話である。表現の媒体が現代美術とは明らかに違うものであり、現代美術のようにメディアとの直接的、共有や同期などは不可能である。PR のためのパフォーマンスなどは、全く意味をなさないのである。それを同類で見ている A 社の見識には、強い違和感を感じるのである。伝統美術を後世に繋げていこうという気持ちが、少しでもあるならば、今までの狭い了見は捨て去るべきではないだろうか。


                                         2016.02.03




  前回の記事は美術公募展擁護の立場で書いたが、半世紀前の全盛時代を期待するものではない。かっては美術界への登竜門としての威力を発揮していた時代もあったが、今ではその影も見られない。今や日本の特殊事情の時代は終わったのである。グローバル化した現在、世界で肩を並べるような作家を育てるには、荷が重すぎる感が強いのである。画壇という一種の雛壇をつくって序列を競う方法は、もう時代遅れになってしまった。世界に通用しない日本だけのシステムでは、最早太刀打ちできないのである。今の若者は競うことや序列をつくることを極端に嫌う傾向があり、それが公募展離れに拍車をかけている。しかも一生懸命にやっても先が見えてしまうのである。試練を必要とする仕事や手を汚す仕事には、魅力を感じないのである。周りがどんな温情措置を取っても、彼らには響かないのである。実利社会においては、最早無用の長物になっているのである。( 多少誇張した表現ではあるが・・・・) 悲しいかな、これが現実である。しかし、これで締め括ってはならない。窮余の一策かも知れないが、若者のモチベーションを高める策を官民一体で取り組むことにより、微かな光明を見い出すことに期待を賭けたいのである。



                                         2016.02.04




  美術の世界と同じように文学の世界でも存続の危機が、叫ばれていることはご承知の通りだと思う。活字離れの世代が増えたことと、デジタル化が進んで本を読まない若者達がクローズアップされるようになったことなど。本を買わない、新聞を取らないなどの社会現象が、メディアを通して大きく取り上げられた。しかし、実際は騒ぐほどの深刻さは感じられない。自分でも最近本屋へ行くことがめっきり少なくなったことや、調べ事はインターネットで簡単に解決してしまうことなど考えれば、この事実は多少感じる、その程度である。また活字離れが進んだといっても、実はパソコンの画面で多くの文章を読んでいるのである。一頃より、かえって文字に親しんでいる筈である。わざわざ本を買わなくてもパソコンや携帯電話の画面で読んでいるのである。本当の意味の活字離れは、進んでいないと言える。ただ印刷物からディスプレーの画面に変わっただけの現象。大げさに騒ぐのは、製本や新聞などの印刷物を正業とする業界だけのことかも知れないのである。毎年発表される A賞やN賞 などは、発表前から大騒ぎで心配など微塵も感じられない。作家達は安心して仕事に打ち込める筈である。それを考えると美術の世界は、業界との繋がりや各種メディアとの繋がりが希薄なところがあり、一旦危機が訪れると存続問題にも関わってくる。特に純粋美術は商業化が難しい分野であり、後継者不足に頭を悩ますことになるのである。



                                         2016.02.05




  美術公募展に陰りが生じるようになって20数年が経過する。かっては美術運動を推進しようとする活気に満ち溢れた公募展であった。分裂騒ぎもよくあり、世間の関心事の一つでもあった。そのことは取りも直さず、芸術家のやる気の現れでもあったのである。それぞれの団体は、しっかりした理念を持ち、それに基づいて活動を展開していた。若かりし頃は、その雰囲気に刺激されて、制作の意欲を燃やしたものである。それぞれの団体にはカリスマ的リーダーが、存在していた。彼らは強烈な個性を発揮し、自らが広告塔になり、会を盛り上げていた。その影響は大で画学生にとっては、今で言うモチベーションを高める結果にもなっていた。かってのよき時代に戻ることなどあり得ないが、再興のヒントにはなる筈である。しかし、強烈な個性をもった、かってのリーダーの出現はもう望めない。それは、どこの世界でも同じであろう。もう万能の神が出現するような環境はどこにもないのである。


                                         2016.02.06




  各メディアが従来の美術公募展評から手を引いた頃、大手公募展の重鎮作家であった故・宮本三郎氏が発した言葉を思い出すのである。今の状況について問われた彼は、メディアに皮肉を込めた強力なパンチ発言をしている。例えメディアが取り上げなくても、あるいは、来館者がゼロであっても、公募展は永久に続くものだ。我々作家は他人に作品を観てもらうことを前提にはしているが、それよりもっと大事なものがあるんだ。自己への挑戦を完結する場が展覧会であって、来観者の数は問題ではないのだと。君達メディアが一切、報道しなくても永遠に続くからね・・・・強気の発言のように思えるかも知れないが、同じ作家としてその真意がよく分かるのである。作家は自身が持っているすべての能力を、作品に投影し完成させるのである。それが完結するのが展覧会である。自分の作品をどう評価してくれるのか、知りたい気持ちば誰にでもあるものの、それよりもっと自身の達成感の方が、満足度は高いのである。いくら他人に褒められても自己の達成感に勝るものはない。作家にとって展覧会の成功は来館者の数ではないのである。いかに充実した、しかも達成感のある作品を発表できたかが、最大の目標なのである。つまり、発表の場である展覧会さえあれば、それで報われるのである。しかしながら、運営に携わるとそれだけでは済まない、諸問題が発生するのである。


                                         2016.02.07




  展覧会は作家にとって完結点になることを話したが、それを端的に示したエピソードがある。点描作家として名を走せた洋画家の岡鹿之助氏の話である。ある時、彼は所属団体展( 春陽会 ) に作品を持ち込んだ。彼は既に会の主要メンバーであり、入選・落選は関係ないのである。陳列場所も決まり、壁面に飾られた。いよいよ明日の開催初日を待つだけになった。ところが彼は、自分の作品に納得がいかず、それを壁から外して家へ持ち帰ったのである。普通に考えると、こんなことは決してできるものではない。納得のいくまで突き詰めることは作家として当然ではあるが、事も有ろうに展覧会の前日とは・・・・奇道というものである。しかし、常識外れと言われようが、彼の行動は、作家魂を象徴するものである。これは称賛に価する。前述したように、画家の完結は当に展覧会にあることの証なのである。


                                         2016.02.08



  明治になって西洋絵画が解禁になると、従来からあった日本の絵画を、それと区分するために西洋画に対して日本画と名付けたのである。特に明治以降の日本絵画を日本画と呼び、それ以前のものは日本画とは言わないのである。これについては、米国のフェノロサとその助手であった岡倉 天心によつて唱えられるようになったと言われている。たかが100年余りの歴史である。勿論、これ以前の絵画は、大和絵、唐絵、浮世絵などと呼ばれて存在していたのである。日本独特の絵画とは言え、中国(唐)の影響があったことは歪めない。細かい区分が曖昧のまま使われていることが多く、定義づけが未だにしっかり確立していないのである。都合のよいように解釈できることから、釈然としない曖昧さが残る。絵画全体における日本画の位置づけは、上記のとおりで検証化が難しいのである。それに対して西洋絵画は既にグローバル化しており、論理の展開が容易である。洋画と日本画の両者には、それぞれメリットとデメリットが存在する。その相違点がお互いに作用して、新たな創造を生む可能性がある。まだまだ発展の余地があると言える。


                                         2016.02.09



  西洋画(洋画) に対して日本画という領域が確立されて、約100年余り経つ。確立されたと言っても定義が曖昧のまま今日に至っている。我々仲間内では、岩絵の具を使用していることと、膠を定着材に使用していることの二つが、日本画と呼べる決定的な根拠としている。しかし、前に言ったように曖昧さが残るのである。新しい表現を目指す作家にとっては、この曖昧さがメリット(強み)になる。洋画では表現できない効果が、期待できるからである。しかし、従来からある職人的な技に、固執する作家にとっては邪道にもなる。どちらの方向を目指すかは、個人の自由である。上記のように、表現の幅が広がってきている現在、洋画のような日本画が創作されている。(反対に日本画のような洋画もあるが・・・) このようになってくると、洋画と日本画の区分は、必要なしといった考えも出てくるのである。しかし、まだ結論を出すのは時期尚早。固有の絵画である日本画を捨て去るには、余りにも損失が大きい。日本文化のアイデンティティーを失うことにもなりかねないのである。


                                         2016.02.10



  大学で美術(絵画)を専攻し、現在に至るまでに約50年が経過した。大学には日本画の学科はなく、必然的に油絵を選ぶことになった。20年近く油絵を続けたが、ひょんなことから日本画に転向することになった。その経緯については、前に述べているので省くことにする。作家活動を続けてきた中で、通り過ぎた画家は・・・・ピカソ、クリムト、川端龍子、加山又造 などであり、強い影響を受けた。次にシャーガール、マネ、モネ、ドガ、スーラー、ボナール、ロートレック、安井 曾太郎、藤田嗣治、菱田春草、速水御舟 などを挙げることができる。その他、思想的な影響は、マルセル・デュシャン、クリスト、フォンタナ、ゴーキー、デュビュフェ、林 武、岡本太郎 などを挙げることができる。私にとってその影響は、作品にこそ表れていないが、根底に潜んでいるのである。日本画家として活動しているが、制作にはあまり両者を意識して取り組んでいるわけではない。良い絵の条件は同じであると捉えている。ただ画材である岩絵の具と油絵具の違いは大きいので、無意識のうちに使い分けをしている。それが結果として作品に出てくるのである。同じ絵画でも表現材料によってそれぞれに技法があり、それをマスターするには時間がかかる。一朝一夕ではできない。しかも、これらの絵画は純粋美術として扱われているが、全くお金にはならないのである。後に価値が出て大金で取引されることがあるが、それは芸術とは関係のない別の話である。金勘定をする人には向かない領域とも言える。( 芸術家を職種で捉えてはならない理由) 芸術家は霞を食べていくような覚悟がないと、続けられるものではないのである。


                                         2016.02.11




  第2次世界大戦で敗北を味わった日本は、意気消沈の時期を迎えることになる。自信を無くした状況は、当然のことながら日本画の世界にも及んでくるのである。この頃から日本画滅亡論が、巷に叫ばれるようになった。西洋学問優位の情勢が招いた結果とも言える。その当時の日本画は、花鳥山水画 然としたものばかりで、西洋画と比較すると明らかに見劣りがするものである。このことから、西洋画の強みであるリアルティーのあるデッサンと色に注目するようになる。また当時の日本画は、花鳥山水画に見られるような写生を主眼にしたものばかりである。情動 ( 怒り、悲しみ、喜び、驚き etc. ) を表現した、西洋画の迫力のある表現を知ることになる。今までの日本画然とした作品から、脱皮するような新しい表現を模索する気運となったのである。これを機に西洋画と見間違えるような、力強い表現の作品が出現するようになる。滅亡の危機もどこ吹く風、復活する兆しを生み、それが現在に至るのである。従来の日本画の表現に、西洋画の表現がプラスされた新しい日本画が誕生したのである。しかし、従来にあった独自性が失われたことも事実である。もし頑なに固執したならば、きっと浮世絵のような運命をたどったであろう。已むに已まれぬ選択だったと言える。その結果、西洋画と対等のステータスを得たのである。これは何としても守っていく必要がある。日本文化保全のためにも・・・・


                                         2016.02.12




  存続の危機を乗り越えた日本画ではあるが、長くは続かなかった。最近またもや危機説が囁かれるようになった。これは日本画だけではなく、ファインアート(純粋美術) 全般に於いてである。由々しき問題である。やっているのは老人ばかりでは、先が思いやられるのである。後継者不足の現状を多くの人々に知ってもらう必要がある。今の時代に必要を感じないものかも知れない。しかし、何の努力もしないで、自然消滅に身を任すのは余りにも酷過ぎる。本当にこれで終わってしまってよいものだろうかと・・・・
若者にとって魅力がないのは、社会そのものに必要価値を見い出だせない状況にあるからである。しっかり取り組んでも、それに見合うだけの成果が望めない。実利追及型社会では、当然の結果であろう。時間的余裕も経済的余裕もない今の社会では、益々この傾向は、続くものと思われる。これは日本だけでなく、世界的傾向かも知れない。しかし、その波に流されることなく、自ら積極的に打開策を見つけるような日本社会であってほしい。●●は二流だが文化では一流だと言われるような、あるいは自ら言えるような、そんな日本社会であってほしいと、願うのは、果たして私だけであろうか。


                                         2016.02.13




 従来からある伝統的にこだわることは必要ではあるが、度の過ぎた固執は命取りになることが多い。前に述べたように日本画が生き延びるためには、捨てることも必要とは・・・・日本画らしい表現である輪郭のある表現、写実的でない表現、簡略的な形どり、陰影のない表現、色彩が淡い、 etc. は、メリットとデメリットの両方を内包している。西洋画と比較すると、その独自性が反って裏目に出てしまうのである。思いきって断捨離することにより、西洋画に負けない表現ができるのである。このことは個人に立ち返っても言えることである。自分のスタイルに固執し過ぎると、次に進まないことがよくある。ユトリロやアンソールなどがこれに当たる。現代美術のポロックもこれに当たる。早くスタイルを確立してしまったが為に、それを壊すことができずスランプに陥ってしまうのである。彼らの晩年は、惨めと言うしかないのである。これに対して、ピカソや加山又造などは、数年で、そのスタイルを積極的に壊して、新しいものに挑戦しているのである。晩年になるまでアクティブな作品づくりをしている。どちらの生き方を取るかは、個人の自由であり、穿鑿する必要もないであろう。だだ言えることは、芸術活動であっても、長期的戦略(ビジョン) 無くしては、展望は開けないということである。どこでそれを決断するかが、運命の分かれ目。細く長く生きるか、太く短く生きるかの選択は、芸術活動に於いても当てはまるのである。



                                         2016.02.14




  最先端の技術も数か月過ぎれば、もう最先端ではなくなってしまう世の中、ともかく進歩の回転が速いのである。20世紀の美術界も次から次へと、新しい画壇や流派が誕生した。ただ今と違うのは緩やかであったことである。その20世紀の情勢の中で、特に注目されるのが、1990年代に開発された PC の出現である。今まで手作業で行っていた業界に激変が訪れるのである。人に代わって PC がいとも簡単に行ってしまうのである。この変化は、美術の世界にも当然のことながら訪れる。絵も PC で簡単に描いてまう。またその絵を簡単にプリントアウトもできるのである。絵だけに限らず、彫刻においてもである。簡単にモデリングができてしまい、しかも、3D プリンターで再現までしてしまうのである。その進化は予想以上のものがある。人間の機微まで認識する人工知能の開発が、急ピッチで 進められている。実現化する可能性は、非常に高いのである。もうここまでくるとアーチストやアルチザンの仕事を奪うような状況下も考えられるのである。まさに事実は小説より奇なりである・・・・


                                         2016.02.15




  PC の出現により世の中に、大きな変化をもたらした。良くも悪くも受け入れざるを得ない状況下にある。否定したところでどうすることもできないのである。上手く使うことしか、良策はないのである。今まで手作業でやっていたことが PC で簡単にできてしまう。世界の情勢が、インターネットで瞬時に知ることができる。それらはメリットとして受け止められるが、その裏で泣く人々が沢山いるのである。詳しくは言うまでもないであろう。現時点では、まだ心配の域に達していないが、人間の機微までコントロールできる PC が、出現してくるようになると事は重大である。現在人間に近いロボットが、続々と試作されているが、まだそこまで行っていない。人間に取って代わるような事態が、到来したとしたら人類の危機を迎える。そのように考えると、美術、音楽、文学 etc. の芸術なんてちっぽけな存在である。この世の中、永遠に続くものなどないと高を括れ ば、大したことではないのである。


                                         2016.02.16




 綺麗なものを見たり、びっくりするようなものを見たりすると、人はよく「これは芸術的だ」」と言ったりする。芸術の本当の意味を捉えて言っているのではなく、何となく「すごい」の意味の代弁で用いていることが多い。元々芸術の概念は、曖昧であり、個人的解釈が自由にできてしまうのである。技術を優先する考えと技術を超えた特殊能力(魔力的)の両極の捉え方がある。どちらにせよ常人・凡人にはない超能力と考えてよいであろう。一般的には、純粋芸術(作品)を言っていることが多く、応用されたもの(製品)にはこの言葉は当てはまらないことが多い。しかし、利害関係が生じるようなことがなければ、両者の違いは、大した問題ではないのである。ピカソは誰もが、芸術家として認識している筈である。PC を開発したアップル社のスティーブ・ジョブズは、どうであろうか。多分、技術者とか科学者と見ている方が大半であろう。中には、彼を芸術家と呼んでいる人もいるのである。商売のためにやったことだから芸術家と言うのは、おかしいと指摘する人もいる。それらを鑑みて個人的な見解を言わせてもらうと、彼は芸術の域に達した技術者・科学者と見るのが、最も適切なような気がするのである。


                                         2016.02.17




  最近は芸術的感動を呼ぶようなチャンスに、遭遇することが少なくなってきた。何故だろうと思うことがよくある。年齢的に機微に疎くなってきた証拠かなと思ったりするが、よく考えるとそれだけではないような気がするのである。前述の PC の出現と非常に関連が深いのではないかと、思うようになってきた。特にインターネットによる情報過多による一種の社会現象と捉えられるのである。実際に見たり触ったりしないで、知識として理解できてしまうのである。そこにはもう本物は必要ないのである。本物に触れないで、知識という疑似体験で分かったような気になってしまうのである。飛躍するが、前に美術館を訪れる人が激減していることに触れたが、この要因もこれだと思うようになってきた。美術館へわざわざ行くまでもなく、コピー作品で鑑賞できてしまうのである。本物の作品よりコピー作品のほうが、感動するという人々まで現れてきた。一昔では考えられないような現象が、現実のものとなっている。インターネット等の情報で、コピー物をあたかも本物として慣れ親しんでしまうのである。こうなるともう新鮮な感動などある筈がないのである。名画をプリントアウトして自分の部屋を飾るだけで、満足してしまうのである。自宅で個人的に利用するならば、著作権に引っかかることもないので何ら問題はないのである。高い金を出して絵画を買う必要性をも感じないのである。最近、美術商や画廊の等の破綻が、目立つのもこんなところにあるのかも知れない。

                                         2016.02.18

  急テンポで変化している世の中である。これも PC の出現と関係しているように感じてならない。いろんな処理能力が抜群にアップしたのも、この PC のお陰とも言えなくもないのである。良くも悪くも受け入れざるを得ない状況下でもある。落ち着いてじっくり味わってはいられない世の中であるとも言える。一つのことだけを集中してやろうとしても、今の世の中では難しいのである。いろんな条件を総括的に取り込み、適切な判断をしないと効果が望めないようなシステムが、出来上がってしまっている。誰がそのようなシステムを作り上げたのかを穿鑿しても始まらい。自然に出来上がり、既成事実化をしてしまったのである。急激なテンポで進化しているということは、一つ所に留まる余裕もないということである。次から次へと目まぐるしく追い求める連鎖が続くことになる。このことは絵の世界においても言えることなのである。一点の作品をじっくり鑑賞する余裕などは、見られないのである。次から次へと新しいものを追い求めることしかない。その変化は作家自身にも及び、手作業によるじっくり型の制作では、とても追いつかない。その要求に答えるのが、唯一 CG (コンピュータグラフィクス) なのである。その魔法の杖を使うと、新しいものが次から次へと簡単にできてしまうのである。このことから、美大でファインアートを選ぶ若者が激減するのも必然である。だが、例え CG を専攻したとしても、美術の基礎・基本(ファインアート) を学習しなければ、意味がないと思うのだが・・・・


                                         2016.02.19




 芸術に言葉はいらないの真意について・・・・言葉に表せない人間の機微を表現することが芸術の使命であるという考え方がある。言葉を超えた表現が芸術の域に達したとも言える。世界にはたくさんの言語があり、それらすべての言語をマスターすることは不可能である。言葉を介さなくても、その機微に触れることができる唯一なものが芸術である。万国共通の認識なのである。国柄によって程度の差は生じるが、国情がある以上、それは当然であろう。視覚で表現する美術、聴覚で表現する音楽、言語で表現する文学、etc. それぞれの領域で、その使命を担っているのが芸術分野ということになる。これも国柄によって関心度に差があるのである。美術の都フランス(パリ)、音楽の都オーストリア(ウィーン)、文学の都ロシア (モスクワ)などと言ったりするのは、その現れと言えよう。さて、日本はどの分野に卓越性を発揮していると言えるだろうか・・・・


                                         2016.02.20



 アイデアのよいものや発想のよいものは、人目を惹くものである。芸術分野に限らず、どの分野に於いてもである。すぐに湧いてくるような代物ではないので、天運を待つしかないようなところがある。しかし、突然湧いてくるこれらのチャンスも、常日頃脳裏に留めているからこそできるものである。全くの白紙から生まれるものではない。弛まない努力の結果が、ある日、ある時、突如として閃くのである。天命と言うより努力の結果が、為せる業なのである。これも特殊の才能の一つかも知れない。芸術的直観とでも言えようか。時代を先駆ける人々の多くは、この能力を尽きり発揮しているのである。例を挙げるまでもないであろう。これらの人々は、普通の人(凡人) に対して天才として崇められている。この効果は絶大で、いろいろな分野に影響(波及効果)を及ぼすのである。最初のアイデア・発想は、美術分野で言うと純粋美術に当たる。それを第二、第三と活用したものが応用美術と言える。他の分野に於いても、同じ概念であろう。両者の優劣を語るのは、ここでは無意味である。但し美術分野で考えるとしたら、芸術性が高いと言われるのは、前者の方なのである。


                                         2016.02.21



  真実にはその裏が存在するものについて・・・・何事についても言えることであるが、表向きの事象と裏向きの事象があり、どちらが真実なのか分からなくなってしまうことがよくある。これは、人間の心に例えて考えると、ピッタリと当てはまることが多い。誰の心にも善と悪の両方を内包しているものである。表向きとは違った、あるいは、丸反対の気持ちを裏に潜めているものである。その真意を誤ると、とんでもない方向に展開してしまうことがある。人を疑ってかかるのは、よくないという一般的な常識がある一方、これは時と場合によるのである。大切な決断をするような時には、やはり、その裏を考えてみることも大切であろう。「只ほど高いものはない」とか「上手い話には裏がある」とか「後悔先に立たず」などの格言はそのことを端的に言い表している。面白いことに「裏の裏には、また裏がある」という不確かな金言かある。ここまでくると、何が何だか分からなくなってしまうのである。まさに「嘘も方便」に近い代物である。・・・・


                                         2016.02.22



  私が絵を意識するようになったのは小学校5年生ぐらいの時からである。絵が好きであったというよりも、偶然の巡り遇わせと考えた方が適切である。その時の担任の先生が美術好きの方でK 先生(男性)と言った。K 先生は私達児童の作品を、当時応募のあったいろいろなコンクールに作品を出品してくれたのである。偶然にも私の作品は、いつも応募作品の中に入っていた。幸いなことに応募するたびに、いつも上位の賞を取ることができたのである。今から考えると、K 先生の指導がよかったことに他ならないのである。特別に興味があったわけではないが、知らないうちに意識するようになった。あまり努力もしないで、いろんなコンクールに入賞出来たことが、自惚れ心を起こし、自然と意識するようになったのかも知れない。その後、中学、高校と進学するが、美術を特別に意識することもなかった。高校3年になり、進路を決定する段階に来て、やっとぼんやりとした意識が蘇えった。自分にはこれしかないという強い意識に変わったのである。自分の住んでいる当地には当時国公立の美大が一つもなく、結局は愛教大美術科へ進むしか選択の道がなかったのである。東京の美大という選択あったが、家の関係(寺の長男)であったことから、やむなくここに決めたのである。美術の専攻は、中学校過程の美術科(絵画)を専攻し、油絵を専門とした。勿論のこと、教育系の大学であるので、全ての教科を学習している。そして小・中・高の教員資格も取得している。今となってはいろんな教科を学習できたことが、大いに役立っている。4年次の卒論は、『 洋画と日本画の接点 』という自主テーマでまとめた。卒業後は、主に中学校の美術教師として教壇に立った。教師と作家の二束わらじを続けた。20年程経過した頃、ある方(日本画家のS氏) の紹介で、日府展 (日本画府) の洋画へ出品することとなった。この会は日本画が中心の公募展である。初出品は洋画であったが、2回目からは日本画に挑戦をして出品したのである。大学の卒論のテーマ『 洋画と日本画の接点 』以来、ずっと日本画に興味を持ち続けていたので、違和感は全く感じなかった。ただ岩絵の具の扱いは、学習していないので転向時は随分と悩んだ。身体的にもその影響は、大で突発性難聴を患ってしまった。今だにその影響を引きずっているのである。その時に助けてもらったのが、出品を勧めたS氏であった。S氏は私にとって大恩人である。絵心は既に身につけていたので、岩絵の具の扱いをマスターをすると同時に、日本画家として一本立ちをした。この大きな転換期と試練があったからこそ、今の自分があるんだと受け止めている。


                                         2016.02.23



  ここまでの道のりを前回に述べたが、不思議なことに私の親戚関係には、美術関係者を思いの外、多く輩出している。その例を挙げると、名古屋出身で第二次大戦前後に活躍した元日展顧問・芸術院会員の洋画家 K 氏を筆頭に、元東京山岳連盟理事長をしていたデザイナーの T 氏などの著名人がいる。その他に私の実父の兄が、大正時代に洋画家として活動している。しかし、彼は24歳の若さで世を去っている。真偽は定かではないが、彼は京都で岸田劉生に教えを受けていたという不確かな話もある。また、実父の義兄が、絹本画家として地味な活動をしていた。また父方の従弟に日展系団体の洋画家がいた。尚 K 氏は直接的な血縁関係ではなく、縁故ではあるが、挙げた中では一番の感化・影響を受けた人物である。私の学生時代には、舞妓画家として超有名人であり、憧れの対象であった。そんな訳で、私にとっては指針とすべき人物であったのである。当時 K 氏は日展の顧問をされており、直接的な指導はできない立場であった。当時の有力者を紹介してもらったり、絵の取り組みについて、K 氏のアトリエで直接助言を受けたことが、よい思い出として残るのである。ところがその数年後に鬼籍に入られてしまったので、残念なことにそこで道が断ち切れてしまった。その後、10年近く伝手もないまま出品を続けるが、入選が叶わず失意のどん底の状態であった。その時に現れたお方が、日本画家の S 氏であった。たまたま私の個展に立ち寄られたのが、きっかけとなって、思いもしないような展開を迎えることになったのである。



                                         2016.02.24




  9年連続の落選は流石に身に堪えた。10年間やってみて駄目ならきっぱりあきらめようと内心、こころに決めていたのだが、あと1年を残すのみとなると複雑な心境に陥った。何の実もなしに絵筆を折るのは、耐え難い気持ちになった。今までの 9年間は、一攫千金を狙う野心的なこころみに近いものがあったという反省から、あと残り1年を前にして方向大転換をした。入落を気にしないで、気楽に描いていける個展に切り替えたのである。2年目の個展をやっている時に、例の S 氏から在野の道があることを知った。どんな公募展なのかも知らないままに出品をした。東京都美術館に飾られた自分の作品を見て意気消沈してしまった。作品の良し悪しではなく、作品の大きさにびっくりしたのである。私の出品作は最小規定の100号であった。ということは出品作としては最小の大きさであったということだ。これでは見劣りがするのは当然である。出品要項に100号以上の作品を応募のことと記載されていたが、まさかこんな大作ばかりとは思ってもいなかったのである。展示会場には150号や200号はざらで、中には500号の作品も陳列されていた。私の今までの取り組みは、100号以下ばかりであったので、流石に圧倒されたのである。私の出品した洋画部門よりも日本画部門の方に超大作が多く、強烈な印象を受けた。元々この会は日本画が主の公募展であることを、その時に知ったのである。負けず嫌いの性格がここで芽を吹くきっかけとなった。次の年には日本画で挑戦する気持ちが、強く湧いてきたのである。日本画は前々から関心が高かったことであり、また追究主題が仏像であったこともあり、転向することにそれ程の抵抗はなかった。しかし、一大決心であったことだけは確かである。画材も道具も全てを整えるという経済的な問題が生じるからである。それに加えて岩絵の具の扱いを習得していなかったことが、不安材料として大きく伸し掛かってきたのである。それをどのようにして克服していったかを、次の欄で述べてみたい。



                                         2016.02.25




  洋画から日本画へ転向する決意をしたものの、画材である岩絵の具の扱いでほとほと参った。来年の出品までに余裕があったので、本屋で日本画の技法に関する書物を買ったりして俄か勉強をした。知識としては理解できたが、実際の場になると分からないところだらけで、イライラを募らせていた。そんな時に温かい支援を頂いたのが例の S 氏であった。 S 氏はその当時日本画教室を名古屋で開いていたので、ここへ来れば身につくからと温かい声をかけてくださった。その時は藁をもつかむような思いでいっぱいであった。夏休み中 ( 美術教師時代 ) の約 1か月間通って何とか身につけることができた。しかし、自信がつくところまで至ってないので、毎日が煩悶とした状態であった。そのせいかどうか分からないが、耳に異常 ( 突発性難聴 ) を来たしてしまった。家族に言わせると自業自得だと言うが、全くその通りである。今だにその影響を引きずっているが、これがあったからこそ今があるんだと自分に言い聞かせ、慰めているところである。さて話を本題の方へ戻したい。こんな俄か勉強でよくやれたなあとよく言われるが、今思うとこれも若気の至りみたいなものであった。その時の苦労が、今となってはいい肥やしになっている。1年で日本画に転向し、思い悩みながらも展覧会には、150号を出品することができた。その後 3年間ぐらい過ぎた頃から、漸く自分の持ち味を表現できるような自信がついてきた。かっての絵仲間が、「 専門の油絵を捨ててまでも、よく日本画に転向したなあー 」とか 「 大学へ行っても、無駄骨折りだったね 」などと言ってくれるが、私にとっては、ただ、絵のためにまわり道をしただけと認識しているのである。



                                         2016.02.26




 日本画に転向しても大学で学んだ知識は、決して無駄にはなっていない。学問として西洋美術を体系的に捉えることができきた。しかも西洋美術の中に於ける日本美術の特異性について学ぶことができた。それにも増して学友と共に芸術について、激論を交わしたことなどが、幅広い知識の習得に役立っている。これらを端的に言い換えるとしたら、感覚的要素の高い芸術や美術を学問として客観的に、体系的に捉えられるようになったということに他ならない。しかし、そんなものは必要ないという作家もいるので、個人の判断で捉えてほしい・・・・日本画に転向して3年ぐらいは順風満帆の状態であったが、些細なことから会の分裂騒ぎが起こり、その渦に巻き込まれてしまった。その結果、東京での発表ができなくなってしまった。これは私にとって死活問題にも成りかねない重大事件であった。そこで東海三県の有志で新しい会を創設することになり、その創立会員( 監査委員 ) に祭り上げられてしまった。個人的には東京に残りたかったが、最早どうすることも出来ず、結局その渦に飲まれる結果となった。発表の場が地方都市である名古屋に移ったのである。そこで20年近く発表することとなった。そして終わりの 7年間は、その会の代表として運営に深く携わってきた。会を発足した当初あたりから、日本の美術界に大きな変化が訪れた。PC の出現によるものかどうかは断定できないが、若者の公募展離れが巷で囁かれるようになったのである。・・・・その後について、次回の欄で触れてみたい。



                                         2016.02.27




  新しい会の代表をしているあたりから次第に応募者の減少が、目に付くようになってきた。当初は我々の会だけの現象かなと気を揉んでいたが、実はどの会も同様で、一種の社会現象であることを知った。多少心配は和らいだが、それで良しとするわけにはいかなかったのである。会の存続に関わる問題だからである。一人減り、二人減りしていくと、会の代表として強い危機感を抱いた。運営委員会で打開策をいろいろ検討するが、良案がなくズルズルときてしまった。最終的な案として、他の会との統合や母体団体への復帰などを提案したが、一から出直すことは反対だという会員ばかりで、各自それぞれの道を選ぶこととなった。その結果、数人を引き連れてかっての前身母体団体へと復帰したのである。ところが 2年目には脱落者が続出してしまい、最終的には 2 名だけの移籍となってしまった。中央展で活動するということは、精神的、経済的に大きな負担がかかるのである。無理に引き留めることはできなかった。条件の整った者ができることである。活路を求めて東京へ出てきたものの、中央展でも応募者不足で、頭を悩ませている実態を知ることになった。何だ同じかという落胆の気持で、ショックが大きかった。かっての中央展の面影は、もはや見られなかった。何のために一大決心をしたのか、後悔の念が過ったのである。しかし、迷っているわけにはいかない。折角中央展に復帰した以上、あるいは、決意を無駄にしないためにも、やるしかないという気持ちを新たにしたのである。


                                         2016.02.28




  中央展に復帰したもののかっての勢いはなく、落胆することの方が多かった。そんな中、海外で展覧会をしませんかという案内がきた。任意の公募展では海外展まで企画する団体は、まずないことからひと際目を引いた。企画元は大阪の R 社であった。必要経費等見るとお手頃価格であることから心が躍った。しかし、自分勝手に決められる問題ではないので、家族に相談したところ思いがけず、快諾を得ることができた。昨年の2月開催のモナコ・日本芸術祭に参加することとなった。開催日に合わせた公式ツアーにも参加をし、生の反応を体験した。モナコでは、日本美術に思いの外関心が高いことを実感した。また浮世絵以降の特異性に関心を寄せているようにも思えた。日本画の岩絵の具や和紙のような画材の他、金箔や日本画独特の技法に興味を示している作家もいた。井の中の蛙であった自分から殻を破ったことの意義は大きい。モナコから5か月後、パリ・マドレーヌ寺院で開催の「恒久平和展」にも出品することとなった。ここへは現地訪問をしていないので、生の反応は分からないが、報告書を見ると総合監修であるアラン・バザール氏より好評のコメントを戴いている。・・・・・・さて今後どこまで続けられるか分からないが、悔いのない人生を送りたいと意を強くしているところである。
 そろそろ冬眠から覚める時がきたようである。約1ヶ月余り、思いつくままに綴ってきたこのコーナーも、これで一区切りをしたい。今までの内容から、作家としての取り組みの片鱗を覗いて頂けたことと思う。意余って言葉足らずの感があると思うが、次の機会に向けて推敲を重ねていきたい。奥の深い芸術論、美術論、絵画論、作家論 etc. は、簡単に言葉では括れない複雑な内容を含んでいるものである。こちらを立てれば、あちらが立たずの論があり、混乱してしまう面もあるが、そこを敢えて自分の言葉で綴ってみたのである。公式 HP の巻末にご意見発信のメールを添付しているので、そこでご意見をいただければ幸いである。


                                         2016.02.29


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