更新日 2022.06.19







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応永8年(1401年)悦山暢喜上人を開山として、徳永城主・徳永小七郎義雄が一宇を草創したのが始まりである。悦山暢喜上人は、応永初期に当国遊化の折、法蔵寺・龍芸(りゅうげい)上人の化導を受け弟子となった高僧である。応永18年(1411年)4月23日に義雄は入没し、当寺に葬られた。そま後、不退院のある道目記では、15世紀後半から16世紀後半にかけて道目記の戦いが数度あった。道目記は地形的に豊かな米の産地で、地権争いが度々起きてきた。その戦いで戦死をした武将の墓が大将塚として祭られていた。またその戦いで戦死をした無名戦士の墓も、不退院の墓所から少し離れた所に祭られている。その後、徳川家管轄の寺領となり、争いは無くなった。その功績を称えるために、不退院の屋敷から少し離れた場所に権現さん(家康の神号)が祭られ、崇め尊ばれた。徳川家の影響が大になり、不退院の住職は、その後数代徳川の家臣の家柄の者が継ぐことになる。正親町天皇の元亀3年(1572年)当山6世本翁意伯(鳥居忠吉の子)が勅願により参内して浄土曼荼羅を講筵し、『上衍寺』の勅額を賜った。永禄10年(1567年)9月29日に入没した荒川城(八面城)主荒川義広、および文禄2年(1593年)5月2日に入没したその妻・市場姫(徳川家康の異母妹)の墓も当寺にある。当山7世頓翁意傳の代、慶長7年(1602年)徳川家康より13石7斗の寄進を受け、御朱印寺として寺紋に三つ葉葵の紋を授かった。

所在地


愛知県西尾市上道目記町中屋敷11番地

交通手段


名鉄西尾線の西尾駅から幡豆郡一色町方面へ約4キロ。
名鉄西尾線の福地駅から徒歩で約20分。

関連項目


三河十二本寺

ウィキペディア百科事典より

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