更新日 2023.02.02





戦国時代の名士が深く関係しています。

不退院は三河12本寺の一つとして栄えていました。

     参考: 三河12本寺LinkIcon






 鳥居忠吉の菩提所は不退院です。

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鳥居 忠吉(とりい ただよし、生年不詳 - 元亀3年3月25日(1572年5月7日))は戦国時代の武将。三河国松平氏(徳川氏)の家臣。鳥居忠明の子。三河国碧海郡渡城主。通称は伊賀守。子に忠宗、本翁意伯上人、元忠、忠広。

生涯
松平清康・松平広忠・松平元康(後の徳川家康)の3代に渡って仕えた。

清康の死後、松平宗家は野心を抱く分家の桜井松平内膳信定に対抗できないほど弱体化し、駿河国の名門・今川氏の傘下に入って命脈を保つ。天文18年(1549年)に主君・広忠が暗殺され、その後は、新たな幼主・竹千代(後の家康)の身柄が駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれた。

この間、岡崎の治世は今川氏から派遣された城代による統治よりも、阿部大蔵定吉との実務によって成り立っていた。だが、収穫などの富は今川氏への分配が多く、松平党は日々の暮らしにも困窮する。そんな僅かになった収穫であっても、家康が帰参するであろう将来に備えて倹約・蓄財に心血を注いだ事で知られる。阿部が死去すると忠吉の下に、松平家臣団は一段と結束する。貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた。その忠誠心は後世まで「三河武士」として名声を高めるが、当時の彼らの姿勢や意識は、家康を想う忠吉によって植えつけられた。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺(岡崎市)より岡崎城に入った若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せたという。その後は高齢を理由に岡崎城の留守を守った。

生年は不明だが、没した時に80余歳と伝えられているため、文明から明応年間(15世紀末)の生まれと推定される。元亀3年(1572年)に死去した。長男・忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、次男・本翁意伯は出家していたため、三男・元忠が家督を相続した。

墓所は、次男・本翁意伯が住職となっていた不退院(愛知県西尾市)。



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鳥居 元忠(とりい もとただ)は、安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。下総国香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。

生涯
鳥居忠吉の三男として三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。父は松平氏以来の老臣で、岡崎奉行などを務めた。元忠も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人である。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

天文16年(1547年)、渡の戦いで、長兄・忠宗は戦死し、次兄・本翁意伯は出家していたため、元亀3年(1572年)、父の死後、家督を相続する。

同年12月の三方ヶ原の戦いや諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。

天正10年(1582年)、天正壬午の乱で家康の背後を襲おうとした北条勢の別働隊10,000を鳥居元忠ら2,000が撃退し北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦)、その後、家康より甲斐国都留郡(山梨県都留市)を与えられ、谷村城主となる。

天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世・平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。

天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、下総国矢作城4万石を与えられる。

慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられる。家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。元忠は最初から玉砕を覚悟で戦い続け、13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。享年62。その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。

墓所は京都市左京区の百万遍知恩寺のほか、福島県いわき市平の長源寺。

家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格している。

逸話
元忠は家康の絶対の忠臣であったと言われている。
幼少の頃から家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、感状をもらうことは無かった。家康が感状を与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕えるときに役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には無用なものであると答えた。
秀吉からの官位推挙の話が度々あったものの、主君以外の人間から貰う言われはないと断ったという。
武田氏の滅亡後、重臣である馬場信春の娘の情報が家康に届き、元忠に捜索を命じる。しかし元忠は娘は見つからないと報告し、捜索は打ち切られる。しばらくして、その娘が元忠の本妻になったという話を聞き、家康は高笑いで許した。
四男・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩家老・大石良欽に嫁いでいる。その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)において主君に忠死した大石良雄であった。
元忠の出生地は愛知県岡崎市渡町(元の矢作町)という所で、「鳥居氏發祥地」の石碑が建っている。その碑を管理しているのが鳥居元忠の生家で、今では鳥居家の本家として受け継がれている。鳥居元忠の関係の子孫の多くは関東を中心に東京、栃木、神奈川、千葉、岩手、群馬、茨城、長野等に散らばっている。400年以上過ぎた今でも、元大名の鳥居家や本家を中心とした鳥居家一族の会(鳥居会)を作って時代の検証を続けている。

追記
鳥居元忠は西尾市内にある不退院の他、久麻久神社や実相寺の再建者でもあり文化財の保護にも尽力していた。また、幡豆郡一色町の大提灯で知られる諏訪神社の再建者でもある。




徳川家康の譜代家臣鳥居家と深い関係

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第6世本翁意伯上人は浄土宗西山深草派の僧侶。松平家臣鳥居伊賀守忠吉の次男であり、徳川家康の家臣鳥居元忠の兄である。

出家して総本山である、京都の河原町四条に在する誓願寺で修行した。大変な博学者で宗派の曼荼羅の指導者として有名になった。その後岡崎城の近くの光善寺の住職をしていたが、本山の任命で三河十二本寺の一つである不退院の第6世の住職になった。

元亀3年(1572年)、正親町天皇の勅願により二条城に参内して曼荼羅を講演した。その礼に正親町天皇より授法山『上衍寺』(じゅほうざんじょうえんじ)の勅額を賜る。また1593年、家康の異母妹市場姫の葬儀を不退院で行い、その導師を勤めた。

不退院で没した。没後、不退院の住職は彼の同族の鳥居忠春の親族が継いだ。




  荒川義広は八っ面城の城主、徳川家康の異母妹の市場姫の夫

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荒川 義広(あらかわ よしひろ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。三河国の豪族吉良氏の一族。甲斐守を称した。妻は徳川家康の異母妹・市場姫。

「西尾市史2 古代中世近世上」1974年には、義広の異名として次の6つが記されている(204項)。
義広(「寛政譜」、不退院所蔵文書など) 義弘(「士林泝洄」、真成寺所蔵文書など) 頼持(「柳営婦女伝系」、「三河国二葉松」、「参河志」など) 義等(「三州本願寺宗一揆兵乱記」など) 義虎(「家忠日記増補」など) 頼時(「西尾草創伝」)

経歴
東条城主吉良氏の当主吉良持清の次男として生まれる。東条吉良氏の家督は兄持広が継いだため、義広は別家荒川氏を興した。永禄4年(1561年)家康による東条城主・吉良義昭攻めに協力し、その軍功により市場姫を娶ることになったという(「寛政譜」新訂2巻「吉良」)。しかし永禄6年の三河一向一揆の際には、吉良義昭と共に一向衆の側について家康軍と戦った。一揆軍は敗北したため、吉良義昭は近江国へ、荒川義広は河内国へ亡命を余儀なくされた。 その後の消息については、河内において病没したとの所伝が「三河物語」第2中、および「松平記」巻2に記されている。また一説に八面城を放棄した後、吉良荘寄近村(愛知県西尾市)に蟄居し、永禄9年(1566年)9月22日に没したとの「三州本願寺宗一揆兵乱記」[1]の記事があるという(「参河志」17巻「幡豆郡」八面村の項)。また死因と没年については以下の異なった所伝がある。

墓所と法名および没年
墓所と法名および没年の所伝は以下のとおり(「西尾市史2 古代中世近世上」に拠る。197項より200項)。

愛知県西尾市八ツ面町の真成寺。五輪塔の下部が現存し「荒川氏」「仙林院殿之墳」と刻まれている。仏林院殿前甲斐刕太守、永禄8年8月28日卒。
同・寄近町の法厳尼寺。五輪塔および宝篋印塔が現存。前掲「参河志」掲載の所伝では、その法名を仙林院花山洞栄居士と記し、同17巻「幡豆郡」寄近村の項には「荒川甲斐守頼持」父子の墓ありとしている。
同・上道目記町の不退院。ここは市場姫の墓所ともなっており、墓と位牌がある。寺記によると同地における戦闘により、永禄10年9月29日戦死したという。
夫妻の葬儀はここで営まれ、法名は不退院殿智空上衍大居士で、その位牌が安置されている。また義広は菩提所である不退院の再建に尽力し、功績を残した城主として寺記にその名を残している(この部分につき「西尾市史」未掲載)。
義広の子
尾張藩家臣の荒川氏は彼の子孫といわれる。「士林泝洄」巻37「荒川」には、彼の子として次の3名が掲げられている。

弘綱 次郎九郎。家康に召し出されて3000石を与えられ、その命により穴山梅雪の娘を娶り、その家督を継いだ。嗣子なく、そのため松平定綱を養子とした。慶長4年伏見において没したが(「寛政譜」新訂1巻「久松松平」299項)、その後、定綱は松平に復したため絶家となる。
家儀 平右衛門。兄「弘綱」とおなじく召し出されて1500石を与えられ、松平忠吉に付属せられる。慶長5年(1600年)武蔵国・忍城下において没した。その子・三郎九郎「弘秋」は徳川義直に仕え、子孫は尾張藩士となっている。
女子 松平金弥の妻。


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市場姫(いちばひめ、? - 文禄2年5月2日(1593年6月1日))は、徳川家康の異母妹である。家康は松平広忠と刈谷城主の水野忠政の娘於大の方との間にできた子である。一方、市場姫は松平広忠と田原城主の戸田康光の娘真喜姫との間にできた子である。

松平広忠は岡崎城城主であったが、家康が幼少のころには城の権力地盤も弱く、あっちについたり、こっちについたりの状態であった。結局は今川氏につくことになり、於大の方とは分かれることになる[1]。その後に真喜姫と再婚をして、市場姫が誕生することになる。松平広忠には6人の子がいたが、正室の子は家康と市場姫だけである。あとの子は側室の子である。

松平広忠が亡くなると家康は岡崎城を継ぐことになる。この頃の三河地方は一向一揆で荒れていた。その一揆を収めようとして妹の市場姫を八ツ面城主の荒川義広の所へ嫁がせる。荒川義広は家康の家臣として行動するが、途中で親戚関係のために一向一揆方に荷担し、家康に刃向かうことになってしまう。それを怒った家康は荒川義広を八ツ面城から追い出すことになる。義広は家康の追跡を恐れて全国を逃げ惑うことになる。どこに逃げたかは、はっきり分かっていない。しかし、1567年に入没し、菩提所である不退院で葬儀を営んでいる。また、市場姫は家康の実の妹であることからお咎めなしで、後に家康は市場姫を筒井家に嫁がせている。1593年に入没し、やはり不退院で葬儀をしている。その葬儀の導師を鳥居元忠の兄の本翁意伯上人が勤めている。荒川義広と市場姫の墓はともに不退院にある。


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三河十二本寺(みかわじゅうにほんでら)は、浄土宗西山深草派の寺院で、総本山誓願寺に次ぐ中本山の寺格として崇めている、愛知県の三河地方にある12の寺の総称。
寺院一覧

不退院
法蔵寺
安楽寺
桂岩寺
崇福寺
妙心寺
浄珠院
養国寺
養寿寺
恵験寺
大林寺
梅園誓願寺




本翁意伯の寂後は鳥居忠春の親族が不退院を継いでいます。

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鳥居 忠春(とりい ただはる)は、江戸時代の大名。信濃高遠藩の初代藩主。壬生藩鳥居家3代
寛永元年(1624年)、出羽国山形藩主・鳥居忠政の三男として生まれる。父の死後、家督は兄の忠恒が継いだが、その兄が寛永13年(1636年)に嗣子無くして死去した後、忠春の末期養子が認められなかったため鳥居氏は改易されたが、忠春の祖父である鳥居元忠の功績などを考慮されて、改めて忠春に信濃高遠藩3万2000石の所領が与えられた。

忠春は始めこそ名君として政務に尽力していたが、次第に自分に諫言した重臣7名を斬り殺し、悪政を敷いては百姓を苦しめて、その結果承応3年(1654年)に百姓に天領に逃散されるなどの暴君へと変貌していく。そして寛文3年(1663年)、大坂城山里丸加番を務めるために鐘町の宿舎にいたとき、かねてから忠春の暴君ぶりに反感を抱いていた侍医の松谷寿覚に斬りつけられて、それがもとで死去した。享年40。

後を長男の忠則が継いだ。墓所:長野県伊那市の峯山寺






 中島董一郎の本家(眼科医院)は不退院の門前にありました。

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中島 董一郎(なかしま とういちろう、1883年8月22日 - 1973年12月19日)は、愛知県西尾市出身の実業家。水産講習所(現:東京海洋大学)卒業。


出生地は西尾市の繁華街から西の方に1kmくらい離れた今川町という所である。中島家は代々眼科医の家柄で、祖父も父も当地では名のある医者であった。祖父は郡の医師会の会長を務めていた。父も京都の医学校に出て祖父の医院を継ぎ、当時では大変繁盛した町医者になっている。ところがその父は世間事に疎く人の良い人だったようで、親戚に頼まれるままに借金の保証人になってしまい破産をしてしまうことになる。夜逃げのような状態で名古屋に引っ越すことになり、水産講習所へ入学するまでは名古屋の学校で過ごしている。

講習所卒業後は1907年に若狭商店へ入社し、1915年には農商務省の海外実習生として欧米に派遣される。この頃マヨネーズに出会い、当時日本の栄養不足の改善(特に野菜など)をしようと思い立つ。1916年帰国し、1918年に缶詰販売業の中島商店(1938年に中島董商店と改称)を設立し食品業界に進出。1919年に食品工業株式会社(現キユーピー)を設立して各種食品を製造開始する(マヨネーズ製造自体は1925年に開始し、販売は1972年まで中島菫商店が行っていた)。


1928年にみかん缶詰の販売に成功し、広島県に旗道園(現:アヲハタ)を設立する。なおアヲハタ(青旗)ブランドは中島が欧米に派遣されたときに見たボートレースを見てすがすがしいフェアプレーと青い旗に感動して「缶詰は中身が見えないからこそ製造するものは正直でなくてはならない」という理念を初代社長の廿日出要之進が青い旗をブランドとして決めたことによる。


水産講習所卒業の後は上記のように菫一郎の先見の明のよさか運の良さか分からないが、とんとん拍子に事業が発展していく。会社が大きくなると同時に自分を育ててくれた地域(西尾市や幡豆郡など)に恩返しをしている。地域の若者のために奨学金制度を設け、多くの人材を育てている。

中島は1973年に亡くなり、菩提は西尾市今川町の養林寺にある。なお董一郎の関係の先祖(本家)の係累は同じ市内の上道目記町にある不退院の過去帳に残っている。2003年には『中島董一郎の世界 西尾が生んだ大実業家』(編者高橋敬忠)が刊行されており、その本の中に在りし日の中島の生い立ちが詳しく書かれている。






ウィキペディア百科事典より引用