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< How to live ? > is my subject matter.
And I will show you my identity.
As an artist and as a human being.




画家の眼 ③ 


 彫刻家・佐藤忠良氏の訃報をニュースで知った。30年ぐらい前、美術関係の研究会で講演されている佐藤忠良氏を間近で拝見をし、興味深い話を伺ったことがなつかしく思い出された。その時の内容は、大学での彫刻指導の話であったと思う。難しい芸術論よりも技術指導を優先し、『生徒たちに石を使って限りなく球に近い立体を彫らせている。難しい課題を与えて取り組ませているが、生徒たちはこの学習をとおして自ずから彫刻とは何かを自問自答しながら解決を見つけていくはずだ。』というような話をされていた。私たちが受けた彫刻指導とはずいぶんとかけ離れていて、その時はこれといって大きくは感動しなかったが、今画家という立場で考えると佐藤忠良氏の指導は的を射っていたことがよく分かる。また国からの叙勲をやんわりと断り続けていた姿勢は見事であった。反権力主義者としての行動はとらなかったものの、心には強い反骨精神をもった彫刻家であったのではないかと思われる。心より哀悼の意を表したい。


                                         2011.04.01



 先日ファジー理論の記事を書いたが、調べていくうちにこのファジー理論の後にカオス理論が生まれてきたことを知った。これらの理論は共に人間のもっている曖昧模糊とした複雑な心の部分を数値化して法則性を探ったものである。どちらかと言うとファジーの方が芸術性に近いものを持っているように感じた。数学や工学に人間の心にある曖昧さを取り入れた今の科学は、今後益々必要であり、また発展性がさらに望めるようになる。近い将来、人間により近いロボットの出現が期待できるような気がする。


                                         2011.04.02



 急激な時代の変化の中で創作に関わる仕事をしている者にとって、特に気をつけなければならない事柄が続出している。著作権や肖像権などの問題は特に気をつけていかないと足を引っ張られることにもなりかねない。スケッチや写真などはこの問題に関わることが多く、何気なくスケッチしたものや偶然に被写体になった写真などはこれにあたる。悪意がなくても、現在の法律でいくと、引っかかることが多〃あるわけで注意しなければならない。これを指摘している自身が関係してしまうこともあり得るわけで他人事ではない。アメリカの美術家アンディ・ウォーホルは1960年代頃、世界的な有名人の肖像をシルクスクリーンで発表していたが、当時は今のような法律は存在せず自由にできたはずである。かつてはこんな気楽な時代があったんだと思うとなつかしくさえ思う。友人にプロの写真家がいるが、昔みたいに自由にスナップ写真がとれなくなってきたことを「変な時代になったもんだ」と愚痴ををこぼしている。彼曰く、あまり神経質になりすぎると活動に支障が出てくるので程々に考えてやっているというようなことを言っていた。報道写真もこれらが絡んでくることになり、カメラマンにとっては死活問題にもなりかねない。時代の風物史や社会現象の記録もできなくなったら、かえって後世の大きな損失になることは明白で、まさに前述したファジーな法律の必要性が叫ばれる。


                                         2011.04.04




 画家には寡作の作家と多作の作家がいることはご承知のとおりである。夭折の画家は当然のことながら作品数が少ないわけで、寡作作家とは言わない。点描のスーラーなどはそのよい例である。それに対して、オランダの画家フェルメールは一生の間に30数点の作品しか残していないことから、寡作作家の代表と考えてよいだろう。多作作家では何と言ってもピカソがその代表株として挙げられる。彼は油絵の他、素描、彫刻、版画など含めて数万点以上の作品を残している。絵を職業にしているとしたら寡作作家ではやっていけないことは明白である。そうするとフェルメールは職業画家ではなく、絵以外から生活の糧を得ていたことが分かる。それに対して、ピカソは明らかに早くから職業画家として生計をたてているため、需要、供給の関係から必然的に多作作家になっていたことが分かる。寡作・多作画家とは別にルオーのように自分の納得のいく作品しか世に出さずに残りは全て焼却した、徹底した完全主義の作家がいたことも忘れてはならない。


                                         2011.04.05



 芸術活動をするには強い信念が必要である。自分のまわりを見ても才能がありながら消えていった作家など、多くを見ている。早くから能力を発揮して大手の公募展でよい賞を取りながらも、本人自身は執着心や信念がなかっためにそこで終わってしまった作家などの例である。傍から見ると勿体ないと思えるが、これも本人の自由で、とやかく言えるものではない。かえって才能の開花が遅い作家の方が、奮起の気持ちが強くなり、続けられるのかも知れない。


                                         2011.04.06





 ※クリックすると拡大します。


 4月19日(火)~24日(日) 愛知県美術館で第18回創日展(日本画)を開催する運びとなり、その準備に専念するために休止とする。



                                         2011.04.08






 私の所属する日本画の公募団体展『創日展』が4月24日(日)に盛況のうちに終了した。今年の出品作は4ページ巻尾に掲載。     

2011 第18回創日展出品作3点LinkIcon



                                         2011.04.27




  毎年恒例の所属する公募展 『創日展 』 が無事終了してホットしているところである。中央画壇から離れ、名古屋を拠点に日本画だけの公募展を創設して18年が経過する。よくここまで続けてこれたものだと今を振り返っている。この間いろいろと紆余曲折があったが、こうして恒例の展覧会に成長することができて大変うれしく思っている。大手の公募展にない独自の『創日展』を展開していくことが今後の課題になる。



                                         2011.05.07





facebookLinkIcon を始めた。他分野の方々との交流を通して活動の輪を広げていきたいと思う。HPの巻末(プロフィール)にも facebook のプラットホームを記載。



                                         2011.05.31




 「画家は絵だけを描いていればよい」 といった考えが一昔前にはあったが、今の時代はそんななことをしていては画仙人と呼ばれてしまう。今の時代の絵を描くには、時代の流れや時代の特性・変化を把握した上で制作しないと時代遅れの作家になってしまう。瞬時に世界の情勢が分かる時代に絵だけはといった特殊事情は許されるものではない。古い主題を扱っても表現された作品は現代の絵になっていなければならない。ただのうまい絵にはそれがない。そうならないためには画家は、常に時代の変化に敏感でなくてはならない。一般常識もなくして、今の時代の絵が描けるのかということになる。絵だけに没頭していたのではよい絵は描けない。外に出て時代の変化をキャッチしながら絵を描くことが大切ではないかと思う。




                                         2011.06.19





 芸術活動では数学の答えを見つけるような取り組みでは駄目だ。数学では答えを見つけるために色々なアプローチがあるが、結果的には一つの答えしかないわけである。創造性と言うよりも思考性にあたる。アプローチ自体に創造性があるとは言えなくもないが、あくまでも形而上的なものでコンセプトしか残らない。しかしながら、近年コンセプチュアル・アートなるものが起きているので、必ずしも違うとは言い切れない面もある。
芸術活動の答えは切り込み口 (アプローチ) も多様で、しかも、その答えも多様である。
作家自身が持つ得体の分からない思考過程を通して、それを作品として残すわけで、しっかりした思想がないことには続くものではない。




                                         2011.06.23





 最近 SNS (ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を利用して多くの方々と交流しているが、一般の方々の美術に関する見識の幅にびっくりするすることがある。私がこうしてこの問題を提示すると、上の目線でものを言っているという風に誤解を生じると思うがお許し頂きたい。名画を取り上げた癒しの文章を綴って、大勢の読者に発信している方の中で、あまりにも次元の低い内容のものが目に付くことがある。そのままを信じてしまう読者も多く、間違いをやんわり指摘すると、熱狂的な読者の反感を買い、本質論を外れた討論に発展し、何とも言えない不快感を味わうことがある。熱狂的なファンの前では真実を述べることすら許されない集団心理が働くようである。 SNS の問題点を強烈に感じ取った。社会の縮図と思えば、これが当然なのかも知れないが・・・・。




                                         2011.07.26





 最近、スピチュアル・アートの作品にコメントを求められることが度々あり、返答に困ることが多い。正規のアートを学ばないで、湧き出る制作意欲に任せて作品を作られる方のことである。それはそれでいいわけで、人がとやかく言えるものではないが・・・。ただ画家の立場で批評してくださいと言われると大変困るわけである。一般に言う絵画の常識が通用しないからである。その作品で病気を治したとか、涙を流されて感動されたとか、商売繁盛をしたとか、100万円で譲ってほしいと言われたとか・・・など等の話を聞くとファイン・アートの域を超えた、一種の信仰や宗教に近いものになってしまっている。また、その絵はまるで霊験あらたかな御札のような価値に変わってしまっている。そんな絵に構図や色彩などの絵画の一般常識が通用するわけがないからである。しかも、その絵は号10万円で売れるのでいい画商を紹介してほしいということまで言われると、益々驚いてしまう。霊感商品がよく問題になるが、それに近いものを感じとる。まさに絵画の霊感商品、霊感作品である。本人は悪びれた色もなく堂々としているだけに始末がわるい。・・・最近あったことを記したが、全てに当てはまるわけではないことを付記したい。




                                         2011.07.29



  公募展の代表を務めていることもあって、多くの方々から絵を見てくださいと請われることがある。日本画家であるので洋画には疎いだろうと思って、試しに聞かれているような感じを受けることがある。しかし、絵は日本画だろうが洋画だろうがある域に達すると見えてくるものである。絵画の領域が違っても、然したる差はないものと捉えている。ただ、表現材料の違いに差があるだけで、よい絵の条件は同じものであると確信している。絵は自然を写すだけの行為ではないので、絵を勉強していくうちに絵の本髄を分かっていく人と、気づかない人の差は大きい。それは感性にあたるもので教えてもらって育つものではない。つまり絵ごころのある人の上達は早いが、ない人は何年かけても上達しないのにも通じる。それは持って生まれた才能に関係するのかも知れない。また才能は鍛えないと発揮できないものである。弛まない努力が必要である。才能があっても本人にやる気や続ける努力がなければ、その才能は宝の持ち腐れとなってしまう。そういった人たちを多く見ているので、単に才能だけで絵は上達するものではないことを、初心者には励ましとして教えている。才能がなくても努力でカバーすることはできる。長く続けていれば1点や2点の傑作は描けるものであるので悲観することはない。中にはある時、自分の才能に突如として目覚める幸運な人もいる。はたから見るとびっくりするような進歩を見せるわけで、この人の出現により私自身の信念に揺らぎをもつことがほんのたまにある。努力した後に突如ととして才能が開花するようである。しかしながら、ここまでいく人は非常に稀である。例え話として、英会話を猛勉強しているうちに突如として英語が理解できる耳に劇的に変化をすることがある。それに近いものが絵にもある。この経験をとおして揺ぎ無い自信を身につけることと、継続する努力を惜しまないことが本物の画家になる道ではないかと考えている。





                                         2011.08.06





 高い芸術性をそなえた作家は売るための絵を描いてはいない。もっと高い目標を持って創作に励んでいる筈である。人にはない独自のものが表現できた時の喜びは、格別に大きいものである。それは他人には分からない充実感であり、また、創造の喜びでもある。これを理解できる者は、そのレベルに達した人でないと分からないものである。これがプロの域である。絵が売れて絵だけで生活できるからプロというのとは次元がずいぶんと違う。画家を目指す多くの者は、はじめは前者を選択するが、家庭を持ち、家族を養っていくということになると必然的に後者の生き方になってしまう。前者の生き方を貫いていく画家は非常に少ない。赤貧を覚悟し、それに耐えて一生を全うした者に高い評価を与えたいものだ。しかし、現実はそのような芸術家は生存中は忘れ去られていることが多いものだ。後者の生き方の画家は絵で飯を食っていける自信がつき、満足感に浸ることができるが、心の底では芸術家としての矜持が萎えていることにひけ目を感じている筈である。芸術品と言うよりも商品に近いものである。その商品をさばくために多くの企業が誇大宣伝するために、それが芸術性の高いものと錯覚してしまう世の中である。これが現実かと思うと、どうしょうもない気分になる。芸術性の高さではなく、金の価値で評価されている時代は文化にとってまさに暗黒の時代と言える。





                                         2011.08.19





 私は日本画家として活動しているが、政治にも興味を持っている。別に政治家になりたいというわけではない。日々の政治の動向に興味があるということである。新聞やインターネットの情報を常に注目をし、自分なりの解釈をすることが日課になっている。各新聞社によって報道の仕方が様々であるので、それを自分なりに収集して分析するのが楽しみである。各新聞社のメリット・デメリットをよく承知をしている。各社は新聞の使命によって、それぞれ記事を書いていると思うが、どこまで立ち入って書くかは各新聞社の判断によるものである。真実のみを記事にするという使命でも、取材の仕方によっては様々の表現が可能なわけである。これは我々の表現活動にも共通するものである。主題の突っ込み方や研究の度合いによって高い表現になったり、低い表現になったりするのも新聞記事と共通するものである。ありきたりの新聞記事は個性のない絵と同じで心に残らない。






                                         2011.09.03





 日本画や洋画のような絵画の作品は手作業による制作になるので出来上がる作品の数はタカが知れている。これはメリットでもある。乱作の危険についてはまたの機会に述べたい。現在、巷にあふれている作品群の多くはCGの作品である。CGは作り方にもよるが、ほとんどは画像修正ソフトを使ったもので瞬時に出来上がってしまう。作品が乱作できるのでそれはメリットでもありデメリットでもある。できたCGは一見するときれいな画像ではあるが手描きのような重厚さがない。同じような画像が次から次へとできるので作品が単調になる。発想の良さと画像修正ソフトを使いこなす高度の技術があって他者の追随を許さないような作家でないと使いものにはならない。もちろん手描きのオーソドックな絵画においても同じようなことが言えるものだが、CG作家ほどのことはない。というのは手描きの作品は作者の感性がにじみ出てくるので他者が真似ることは難しい。CGの作品は感性は機械がやることになるので操作が同じなら同じものができてしまう。これはデメリットにあたるものだ。その双方を共に知ることは大事である。そして、そのよいところを使って作品を作っていくことが今、現代作家に求められる作家像だ。
 ところで、すばらしいCG作家紹介しよう。

Rodney PikeLinkIcon




                                         2011.10.04





 乱作、寡作には共にメリット・デメリットがあることは承知のことと思う。乱作というと言葉の響きがよくないが、同義語として多作という言葉がある。多作作家の代表は何といってもピカソであろう。反対に寡作作家の代表はフェルメールであろう。彼らは共に世界的な有名作家であることは間違いないことである。彼らは活躍した時代が違うので同じ基準で語ることには無理がある。しかしながら、事実としてピカソは職業画家であったこと、そしてフェルメールは職業画家ではなかったことははっきりしている。職業にすると多作でなければ生活できないわけで、当然の結果でもある。それに対して職業にしていなかったフェルメールのような画家は寡作であっても不思議ではない。
 ここでは乱作の危険について特に述べてみたい。湧き上がる創作意欲に任せて制作すること自体は他人がとやかく言えるものではないし、また作家個人の価値観でもあるので問題は生じない。それでは何故乱作が危険かということであるが、絶対的な真理があるわけではない。過去の事例から考察するとこのような危険を孕んでいるということである。
 乱作すると必ず駄作が生じてくるものである。傑作も当然あるわけであるが、これらをひとからげに公表してしまうと作品の価値を下げる危険が伴うからである。たくさんの駄作があるとせっかくの傑作の価値も当然のことながら下がってしまう結果となる。ピカソのような作家は乱作しても結果として駄作が少なかったため問題にもならなかった。そこが天才と言われた所以でもある。我々凡庸な作家はこの点を心にとめて活動したいものである。この問題に留意した作家がジョルジュ・ルオーである。彼は自分の納得した作品しか世に公表しなかった徹底ぶりは画家として学ぶべきものが多い。





                                         2011.11.07




 画家の活動は一生をかけて行うものであり、一般の職種とは違うものである。画家は芸術家と言われて社会的に高いステータスが与えられている。これもルネッサンス以降からである。誰でもできる能力ではないので当然の結果であろう。芸術家のステータスは一般企業のような金儲けのために活動するのではないので職種というのも違和感がある。このことはとりもなおさず、作品は、商品と同義的に語るものではないということになる。金勘定をせずに新しいものを造り出す行為が純粋な芸術活動と言えるものである。その芸術作品が結果として商品価値が付けられ高く売買されるのは芸術の本質とは別の問題であるということに留意したい。
一生をかけて行う芸術活動も作家(画家)によって盛隆期がそれぞれ違う。早くから才能を発揮して若死にした早熟の画家は夭折の画家と言われている。スーラー、シーレ、村山槐多、関根正二、青木繁 などの画家があげられる。その他、比較的、若い時代に才能を開花したレンブラント、ユトリロ、アンソール、ピカソ、速水御舟、加山又造などがいる。しかしながら、レンブラント、ユトリロ、アンソールなどは晩年期になるとよい作品がほとんどない。一生涯コンスタントに作品を造り続けたピカソなどは例外中の例外で、ほとんどの画家は一定の時期しかよい作品を残していないのが実状である。変わったところでは晩年期に突如として現れた画家としてアンリー・ルソーやゴーギャンなどをあげることができる。また、ルーベンスのように晩年は宮廷画家として最高峰を極めたうらやましい限りの画家もいた。生前中に画家として認められて至上の生活を送った画家は非常に少ないことを歴史は語っている。たとえすばらしい作品を造っても起業家のような一獲千金はありえないことである。先日亡くなったアップル社のスティーブ・ジョブスは芸術家に近い仕事をしていたが、芸術家ではない決定的な相違点は結果として起業家としての仕事であった点である。まったく新しいものを作り出す行為そのものは芸術的行為と言えなくもないが、最終目的が違っていたことである。芸術家というよりも彼は発明家と呼ぶべきであろう。  
 芸術の道は金勘定をして行う行為ではないという点から、一般の職種とは一線を画して語らなければいけないと考える理由でもある。




                                         2011.11.15




すばらしいニュースが飛び込んできた。

「画家村山槐多は岡崎出身」 「横浜生まれ」定説覆す・・・大発見!!

 22歳で早世し、生涯に不明な点も多い画家村山槐多(かいた)(1896~1919年)が岡崎市で出生したとの新説を、同市美術博物館の村松和明学芸員(48)が親族の証言などから明らかにした。
 戦前の日本画壇の重鎮で、いとこの山本鼎(かなえ)は岡崎生まれで知られる。一方、槐多は、父谷助が槐多の出生当時に教師をしていた横浜市神奈川町生まれが定説となっていた。
 村松学芸員が、名古屋市などに暮らす親族への聞き取りを重ねた結果、谷助と母たまは槐多が生まれる2週間前に入籍し、岡崎市花崗町に本籍を置いたことが分かった。槐多の出生届が岡崎市に出されていたことも市役所に残る資料で確認できた。
 谷助夫婦はその後、横浜や高知など全国を転々とした。
花崗町の土地は当時、たまの姉の嫁ぎ先である石材の豪商嶺田家が所有。村松学芸員は「裕福だった嶺田家の援助を受け、たまは故郷で出産に備えたのだろう」と推測する。
 村松学芸員は20年前から鼎と槐多の作品を研究。鼎の大作とされていた水彩画「日曜の遊び」は実は槐多が描いたとする説を発表したり、所在不明となっていた槐多作品を発見したりといった成果を挙げている。
 今回の新説発表を「山本鼎とともに槐多も岡崎生まれだったことは地元の誇り。さらに研究を進めて業績にももっと光を当てたい」と話している。
 岡崎市美術博物館は3日から、槐多の個展としては過去最大規模の「村山槐多の全貌」(中日新聞社共催)を開催する。村松学芸員は著書「引き裂かれた絵の真相-夭折(ようせつ)の天才 村山槐多の謎」(講談社)を今月出版する予定。
 山本鼎と村山槐多 岡崎生まれの姉妹を母に持つ、いとこ同士。鼎は繊細な技法で20世紀初頭の日本美術界をけん引した。槐多は、鼎の影響で絵画を始め、大胆で直観的な作風で知られる。結核性肺炎で急逝した。          ・・・・・中日新聞より転載



「横浜生まれ」定説覆す




私の住んでいる愛知県・三河地方の誇りにもなる大発見である。




                                         2011.12.02



謹賀新年





2012.1.18 15:51の産経新聞の記事より

石原氏、芥川賞選考委辞意「全然刺激にならない」

石原慎太郎東京都知事の発言内容
 芥川賞の選考委員を務めている東京都の石原慎太郎知事は18日、「全然刺激にならない」として、今回限りで選考委を辞退する考えを明らかにした。
石原氏は報道陣に対し「いつか若い連中が出てきて足をすくわれる、そういう戦慄を期待したが、全然刺激にならないからもう辞めます」と語った。
 石原氏はこれまで若手作家に関し「自分の人生を反映したようなリアリティーがない。(作品に)心と身体、心身性といったものが感じられない」などと語り、今月6日の知事会見では「苦労して(同賞候補作を)読んでますけど、バカみたいな作品ばっかりだよ」と話していた。・・・・抜粋記事

 この記事を読んで、私自身非常に共感するところがあったので記しておきたい。石原氏は小説についてこのように述べているが、絵画についても同じような状況にあることを感じる。上からの目線で批評しているように見えるけれども決してそうではなく、石原氏は単刀直入に本質を突いているからである。本来なら適当にお世辞を言っておけば、芥川賞の選考委員としての役目は果たせるのに、このように述べたということは我慢ならなかったのだろう。彼の本心が伝わってくるように思えてならない。内容のない表現技巧に走った作品や商業化を過剰に意識した作品、言葉遊びのような軽い作品などのことを指摘しているように思える。このことは絵画でもそっくり当てはめられることでもある。私は公募団体展の代表として、また審査委員として活動しているが、彼の述べていることが痛いほど身につまされてくる。作品に血や汗を感じない上面だけの小奇麗な作品が氾濫し、ちょっと目はいいがすぐに飽きてくるような作品、商業化の波を過剰に意識したような作品等、ともに芸術性の低いものばかりが世に出回っている。それがあたかも本当の芸術だと錯覚してしまっている現代である。価値観の多様性と過度の市場性に走っている現代の悪い世相をそのまま受け継いでいるように思えてならない。




                                         2012.01.18




2012年 第19回創日展(日本画)の公募案内

応募希望の方は事務所までご連絡ください。
事務所 Email/ soujitsuten@yahoo.co.jp
公式サイト/ http://soujitsuten.com/



                                         2012.02.21





 2012年 第19回 創日展出品制作たけなわといった昨今である。同じ主題で20年近く続けているのでマンネリ化しないように心がけている。常に新しい冒険にトライしているが、時には自分の思いと反対の方向に後退しまうことがある。描いている時には気づかなかったことが完成間際になってやっと気づくわけである。一心不乱の時は目標に突き進めることしか眼中になく、余裕のない極限状態に陥っているため雑念がよぎらない。しかし、完成間際になるとやっと見えてくる大切な思惟に気づくことがある。まさに後の祭りである。その作品を他人の方にたとえほめられたとしても、自分の心の中は不満足で到底納得できるものではない。実はその反省こそが次ぎの作品に生きてくるわけでで、後の祭りも大切なプロセスであると肝に銘じている。作画の大きな変換期のはじめはどうしてもこの『後の祭り』のことが多い。私の今までの経験からすると5年周期ぐらいで大きく方向変換をしているように自覚している。今年はその変換期の初年にあたるので試行錯誤があり、自分でもこの『後の祭り』を強く感じている。果たして観覧者にはどう映るかが大いに気になるところである。



                                         2012.03.23



 2012年 第19回 創日展 盛会の内に終了致しました。ご光来ありがとうございました。今年の出品作品は下のリンク巻尾でご覧ください。

2012第19回 創日展出品作LinkIcon



 2012年 第19回 創日展は盛会のうちに終了し、ホットしているところである。まだ巡回展の三重展があるが地方展になるので私の任から離れることになる。
 さて、今年の私の出品作品について記しておきたい。 絵をデザインするということを述べているが、これは単に絵の構図で描くのではなく、構図でできた絵をいったん壊して構成しなおすことを指すものである。古い題材を扱っても表現されるものは今の時代を反映する新しいものでなければならない。これがデザインされた絵ということである。これは私の持論でもある。結果的に成功したか、失敗したかは別の問題である。ただ新しい表現をめざすことが芸術活動の根幹であることは確かである。ただのうまい絵にはこれがない。これが問題であるわけで、私はいつもこのことを声を大にして唱えているわけである。同じことを繰り返していることは芸術ではない。常に失敗を恐れずに冒険することが次ぎの発展に結びつくものである。私はその考えをいつも頭に入れて取り組んでいる。
アウトサイダーの作家はおもしろい作品をつくるが、絵をデザインすることができないために同じことの繰り返しになっていることが多い。また売り絵専門の画家もこの例にならっていることが多い。へたに冒険をして売れなくなったら大変だという意識が働くのだろう。こうなったら芸術活動ではない。商品をつくる行為でしかない。しかし、どちらを選ぶかは本人の自由であるわけで要らぬお世話ということになる。さて、私のこの考えを理解してくださる方が果たしてどのくらいいるのか知りたいものだが、知る由もない。



                                         2012.05.06

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