画家の眼 ⑨
2014年度の後期になりました。徒然文・画家の眼を続けて参ります。今後ともご支援を賜りますようお願い申し上げます。
2014.10.01
季節外れのような大型台風の襲来で、日本中が恐怖に苛まれている。一週間前は御嶽山の噴火で大きな被害を受けたばかりだけに、大自然の脅威にはどうすることもできない苛立ちに打ちのめされている。この自然災害に日本は、何度となく遭遇しているのである。その都度へこたれることなく克服してきた経験こそが、実は日本の底力の源でもあるのである。『 災い (禍) を転じて福となす 』 のことわざにあるように、時代のイノベーションのために天から与えられた試練だと捉えれば納得できるものである。直接に被害を受けられた方々には大変失礼な言いまわしかとは思うが、日本全体が打ちのめされてしまっては、返って被害者の方々に申し訳ないような気がするのである。大自然を制御できない以上、この試練に耐え忍ぶしか方法がないのである。いつかは大自然をコントロールできる日が来るかも知れない。それまでの辛抱である。生きている間にくるものなのか、次世代に委ねることになるのかは全く分からないが・・・・この18号台風の後、同じコースで一週間後、19号台風が迫っているのである。被害最小になるように準備万端を心がけたいものである。
2014.10.06
昨日、午後7時頃にノーベル物理学賞に日本人3名が受賞したとの吉報が入った。すばらしい限りである。日本人として素直に喜び合いたいと思う。電球のLEDに関する基礎研究とその応用技術に対する実績に対して贈られたようである。受賞された三氏にとって受賞そのものは嬉しかったに違いないと思う。しかし、表面とは裏腹の複雑な内部事情があることも事実である。その顕著なものは 「ゼロから1を作った者は、1を100、1000にした者よりも偉いんだ」・・・・という考えが日本では主流で応用研究に対しての評価が余りにも低い現状がある。「ゼロから1を作った者」は、俗に学者と言われ高く評価をされる。「1を100、1000にした者」は技術者と言われて評価が低いことに対する不満など・・・。 これは我々が行っている芸術の分野にも共通したものである。純粋美術( ファインアート )と応用美術( デザイン ) の違いに大変よく似ているのである。上記の科学分野と同じように。「 ゼロから1を作った美術 」 の方が 「1を100、1000にした美術 」 よりも一段と評価が高い現実があるのである。不満が出るのは当然ではある。しかしながら、この価値体系は容易には変えられるものではない。なぜならば真の創造とは、「 ゼロから1 」 を造ることに他ならないからである。
2014.10.08
何はともあれ賞を取るということは、めでたいことである。しかし、受賞した当事者にとっては、まわりが騒ぐほど極上の感動はないものである。というのは既に終わった結果にご褒美を頂いてもという気持ちがあるのであろう。科学や芸術に関わる研究テーマ( 主題 ) は、永遠に続くものであり、終わることがないからである。途中の研究に対して受賞という評価を頂いても、かえって次に繋げる研究のプレッシャーになるだけで、素直に喜べない嘘のような、本当のような現実があるのである。・・・・・往々にして自己の評価はもっと違うところにあるものである。周りの評価と自己評価が一致したところでの受賞ならば、最高の贈り物になるであろうと推測するのである。「 世界最高峰の権威あるノーベル賞を受賞なら文句なし 」、 よけいな穿鑿をするなの声が聞こえてきそうである。失礼かとは思うが、かってノーベル文学賞を受賞された川端康成氏のことが思い出されるのである。受賞後の研究が、蛇足になってしまうことにもなれば、折角の努力が、台無しになってしまうのである。当人にとっては生きがいを失うことにもなりかねないのである。世界史に永久に名を残すことになり、これ程の名誉はないと思われるのだが、・・・・しかし、それはあくまでも部外者の思いであって、受賞した当人の気持ちとは違うものである。そこには。当人しか理解できない複雑な思いが存在するものである。もとより科学や芸術の研究は、賞を取る為の行為ではないのである。たまたま結果が稀有な研究であったために、受賞の対象になっただけのことなのである。受賞後の人生を考えると、単純には羨ましいと言えるものではないのである。
2014.10.16
〔 安倍改造内閣の組閣人事において・・・・目玉である女性閣僚の登用は、取ってくっ付けたような感が拭えないと感じたのは、私だけであろうか。グローバル化の風潮ではあるが、日本人としてのアイデンティティーがそこまで進化していない現状において、やや尚早に感じたのである。女性の能力を過小評価したのではなく、まだ馴染めない素地が日本には、頑としてあることに躊躇するのである。うまくいけば、その懸念は払拭するのではあるが・・・・・] 2014.09.09 記事より一部抜粋
1ヶ月余りでこんなことになろうとは、全くもって予想外の出来事である。期待感があっただけに、真に残念なことである。それも女性閣僚が立て続き二名も対象になるとは、これはまさに異常現象である。集中的に狙われたとしか思えないのである。人間なら細かい部分まで突っ込まれると、誰しもすねにきず持つ身であり、返答に困るものである。不意を衝かれた感じなのである。反論できないような事実をいきなり突きつけられれば、誰であれどうしょうもないのである。まさにアノニマスに狙われたようなものである。一旦狙われると太刀打ちできないハッカーには、為す術もないのである。やり方がまことに汚いのである。やった方は爽快かもしれないが、それはうちうちのことで、一般的には顰蹙を買うものである。かえって逆効果だと思うのであるが・・・。 その罠にまんまと引っかかった女性閣僚自身の脇の甘さは拭えないが、それが個から体へと連鎖的に波及することが致命傷になるのである。安倍政権にとっては、既に第一次内閣で経験済みの筈である。どう切り抜けるか、お手並み拝見といきたいものである。
2014.10.20
今の政局を見るとまるで子どもの喧嘩の様相である。次元の低い問題で各政党が足の引っ張り合いをしている。国民にとって最優先されるべき課題がそっちのけで、何の為の政治かと疑うような国民不在の国会運営である。どの政党も一理はあるが、大局観のない発言ばかりで信頼がおけないのである。国力が右上がり状態になってきているにもかかわらず、国民に不安を態々煽り、政権打倒を第一優先課題にしている某政党には誠にもって呆れるのである。せっかくここまで国力が高まったならば、お互いに協力してさらなる発展に貢献するのが、国民の為の政治ではなかろうかと思うのである。党利党略をやっている場合ではないのである。日本の為に一丸となって力を合わせ、さらなる国力増強をすることが、国民の一番に望んでいることであると思うのである。国力増強と言うと、不本意な誤解を受けるので断っておきたい。戦前にあったような軍事的な増強を言っているのではなく、これはあくまでも内に向けた政治・経済、その他諸々の力を指してのことである。他国に依存せずに、自力で立ち上がることのできる最低限の力は保持する必要がある。しかし、今の国際情勢では、それだけでは通らないプラスアルファーの力が必要である。いろんなものがグローバル化している現在、自国だけよければという狭量な姿勢では、国際社会には通用しないのである。現政権はそれを可能にしつつある状況にあるのである。全てが良いというわけではないが、今までの例からすればキャパシティー内の政権運営である。閣僚の不祥事で窮地に陥っている現政権ではあるが、ここは個利個略に走らないで、早く軌道に戻ることを期待したいと思うのである。誰でも批判はできるが、実行が伴わないものである。落ち込まないで、焦らずに打開してほしいと願わざるをえない今日この頃である。
2014.10.29
今月の4日から5日にかけて京都と滋賀の名刹めぐり( 霊山めぐり )一泊二日の旅に出かけた。この旅は個人というよりも所属する団体の旅行である。私は日本画家でもあり、また寺の住職でもある。今まで画家以外のことは公表を控えていたが、この欄で初めて述べることになる。現在、宗派全国教区会の会長を歴任していることもあって、約 120名の信徒を引き連れての名刹めぐりである。4年間に 8回の旅を計画しているが、今回はその 3回目の旅である。前 2回は北陸を中心にした同宗派ゆかりの名刹の旅であったが、今回は宗派拠点の旧都に戻ってきたことになる。ゆかりの寺院をいくつか回ってきたが、その中で一番感動したスポットは何と言っても比叡山の延暦寺である。この地で15歳から18歳の3年間修行され、その後、称名念仏を確立された浄土宗の開祖法然上人の御影堂( 法然堂 )を訪れたことが強烈な印象として残るのである。この地の冬は全てのものが凍りつくと言われるほどの厳寒の中で、ひたすら修行に励まれた元祖の姿が思い起こされるのである。殺された父母の菩提を弔う方法を必至で探られ、そのために多くの経典を読破され、見つけたものが中国の高僧・善導大師の書かれた経典・観無量寿経にある称名念仏を唱えれば誰でも救われるの一説なのである。これはお釈迦様が涅槃に入られる前に弟子である阿難陀に仰った言葉である。「南無阿弥陀仏 」 と唱えなさい。そうすれば私の代わりに阿弥陀様が全てやってくださるからと・・・・その教えは、その後、浄土三部経( 無量寿経・観経・阿弥陀経 ) として完成するのである。「 難しいことは何も必要なし。ひたすら南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも救われる(口称念仏)。女人は勿論のこと罪人をも 」 の教えなのである。因みに「 南無 」 とは 帰命のことであり、またの意味は帰依と同義。『 身も心も永遠の仏である阿弥陀様に委ねます。どうか西方極楽に導いてください 』 の教えなのである。・・・・・下の画像は比叡山の延暦寺の写真である。
2014.11.07
衆議院解散選挙が年内に施行される状況になってきた。安倍第二次内閣の任期を大幅に前倒しした解散である。ここのところ閣僚の不祥事や経済対策の不調や強引な法案成立などの国会運営等で八方塞がりの感が見られただけに、うまいタイミングを探っていたのかなと勘ぐるのである。消費税 2パーセントの増税は雰囲気的に予定どおり強行するだろうと思っていたところ、先送りにするという提案は予想外の展開であったのである。党内には増税推進派がたくさんいる筈で、その対立を回避するために、あるいはなだめるために打って出た首相の専権行為と察しがつくのであるが、・・・・・確か対立政党の中にも消費税 2パーセントの増税は、同調派が多いはずである。それがこのように先送りしを提案したのは、相当な駆け引きがあってのことであろうと思われる。下手をすれば議員数を減らす結果が待っているかも知れないのである。しかし、現在の野党を見てみるとその恐れは、微塵も感じられない現状がある。与党に対抗する力が明らかに不足しているのである。これは国会討論や日々の政局から見れば明らかである。それを読んだ上の判断だとは思えるが、選挙は水物と昔から言うようにやってみないと分からないものである。・・・・・これらの一連の政局に対して個人的見解を、ここで敢て述べさせてもらう。消費税 2パーセントの増税を見込んだ上の政策論議が、ここで実質的に頓挫したことになるわけで、アベノミクスは虚構であったことを暗に認めることにもなるはずである。ここまで来たら予定どおり実施した方が、政権公約を忠実に実行した強力な政権として歴史に残るはずである・・・・やはり、保身に走ったのかと勘ぐられるのは必至なのである。遅かれ早かれ増税をしなければ日本は成り立たないことは明白である。身を切られるような思いで実施をしてほしいと思うのである。たとえ支持率が大幅に下がったとしてもである。誰かが思い切ってやらない限り、日本には明るい未来は訪れないと思うからである。きっと多くの人々はそれを十分承知しているはずである。
2014.11.16
衆議院解散選挙が決定した以上後で何を言っても始まらないわけであるが、巷にはいろんな論調が流布している。 2パーセント増税の先送りは当然であるとか、アベノミクスは失敗であったとか、大義名分のない選挙であるとか、何故こんな時期の解散なのかとか、増税よりも 「機能的財政論」を理解するべきだとか etc.・・・・・ etc. それぞれに言い分があり、理解できる点はあるが、ただ、ただ、どれをとっても大局観がない。それだけにこれだといった決定打に欠けるのである。もっとも決定的結論はあるはずもないのではあるが・・・・これらの中で政策論と経済論は別ものとして捉えている論調が多くある。消費税 2パーセントの増税は政治の財源確保のためのものであり、要するに財政問題としている点である。経済的効果からすると消費税 2パーセントの増税は賛否両論があり、政策と切り離して捉えている論調が多いのである。政治と経済のファージーな部分を程よく両立するには、どこかを省略したり、消去したりしなければ成り立たない現状がある。そこに一人ひとりの考えの違いが生じてくるのである。完全に一致することなどないはずである。どこが許せて、どこが許せないかは、『 選挙という禊 』 を通すことで判断するしかないのである。解散選挙の大義名分はここにあると言えなくもないが、今回の場合は増税は先送りするが、再増税は29年4月にすると明言していることから延命策ではないかと勘繰ることもできるのである。どちらにしろ我々有権者は、情に溺れることなく賢明な判断をしなければならないのである。
2014.11.21
師走の選挙戦で、日本中が一層の慌しさを醸し出している。巷には何故こんな時期に選挙をやるのかという一部の批判があるが、選挙に立候補する当人やその応援者の方々にとっては、一般選挙民以上の忙しない日々を送っているわけで、そんな批判をする余裕などないはずである。また莫大な選挙費用を使って勿体ないではないか、その費用をもっと大切なところへ使うべきだなどと畏まって述べられる方々もおみえになるが、それも実に可笑しな言である。適切な選挙時期というのは政治的な気運が第一優先のことであって、季節的にどうのこうのではないのである。また膨大な選挙費用を使う云々は、国政の一大事を考えると欠くべからずの経費と捉える必要があるのである。無駄な部分もたくさんあるわけではあるが、現時点では最良の方法なのである。貴重な国税を使うのも致し方ない重大な行事なのである。それだけに一般選挙民も真剣な態度で参加する必要があるのである。細かいことに愚痴を言う前に政治の骨子をわきまえて参加すべきなのである。こんなことはないとは思うが、・・・・おもしろ半分の判断や人気投票をするような判断、甘い言葉に誘われての判断、簡単に支持政党を変えてしまうような判断、個利個略に固まった料簡の狭い判断 etc.・・・・.は国を混乱させることにもなりかねないのである。 前回の教訓を生かした賢明な判断を国民は、きっとするであろうと楽観している今日この頃である。
2014.11.28
下記のとおり名古屋で中部日府展を開催しています。ご光来ならびにご高評賜りますようお願い申し上げます。
2014.12.04
第42回中部日府展は盛況のうちに終了した。これをもって本年度の日府展の行事は全て終了したことになる。5月の東京都美術館で行った本展で始まり、その1ヶ月後には愛知県美術館ギャラリーで巡回展を行い、9月には日本画部による部展が東京の銀座 サロン・ド・ジー 画廊で行なわれ、そして今回の中部日府展を名古屋の栄 妙香園画廊 でそれぞれ開催してきた。作品づくりも大変であるが、それにも増して搬入・搬出の段取りと手配、そして会場準備や会場当番が大変である。好きな道(道楽) だからこそできることである。自分で選んだライフワークであるので簡単には止めるわけにもいかず、責務として取り組んでいる。この仕事は、金儲けとは一切関係しない自己への挑戦なのである。俗に言うところのアイデンティティーの証明である。経済的な余裕と創作意欲、そして諸々の条件が揃わなければ、長くは続けられるものではないのである。芸術活動は才能やセンスの有り無しがよく問われるが、それだけでは成り立たない活動である。才能やセンスを持ち合わせていても、本人の意欲が欠如していれば成就できないものである。むしろ能力の高さよりも積極的な取り組みが願望成就の近道なのである。後継者を育てたいと思っても、金にもならない活動だけに若者にとっては魅力薄のところがあるのである。また、この活動に対して崇めるような雰囲気が、社会的に希薄な現在、望むべきもないのである。政治や経済は国民に直結する問題であり関心は高いが、我々の行っているような文化活動諸々には関心が低いのが現状である。周りを責めるわけではないが、せめてフォローをしてくれるような社会であってほしいと思うのである。そうすればきっと後継者が育つような明るい未来が拓けるのである。
2014.12.13
何事においても長く続けることで、次のステップを容易に踏むことができるものである。途中で止めてしまっては、願望成就は達成できないのである。長い人生で本当の自分らしさ ( アイデンティティー ) を確立するには相当な勇気と努力、その他諸々の能力を発揮しなければできるものではない。若い時は大きな理想に燃えてスタートしても、その後いろいろな難局に直面すると、その理想も少しずつ萎えてしまい、結局は挫折してしまうことにもなる。自分の人生は自分が作るものである。途中で方向変換をしても、後悔がなければ、人生いろいろで他人がとやかく言えることではないのである。またその道の理想に燃えて、尽ぎり頑張ったとしても成功するとは限らないのである。諸々の条件が揃わないことには達成は、難しいものである。このような状態になった時に言う言葉で、それも 「 お与え 」 である とか、「 定め 」 であるとか、「 運命 」 であるとかという言葉で受け入れてきたのである。今の時代では、これらの言葉は死語に近くなってきているが、妙に的を射った表現なのである。個人の力では及ばない大きな力の存在は、神や仏の存在に繋がるものである。宗教心の欠如した現代人には受け入れ難い思想かも知れない。しかし信仰心がなくても願事をよくする現代人は、無意識の中に、人間の力の及ばない神や仏の存在を意識しているのである。摩訶不思議な解釈と言えるのである。やや本題から外れたので話を戻すことにする。夢や理想から外れた人生を送りながら、その後、仕事をリタイアし、若い時の夢であった日本画家を目指して通信制の美大に入り直し、画家として頑張っている方が、現にいるのである。若い時の夢が捨て切れず、再挑戦をしている姿には、頭が下がる思いがするのである。人生の最盛期を過ぎているので、才能がどこまで開花するか分からないところがあるが、その意気込みは賞賛に値するものである。諦めずに挑戦する意欲こそが願望成就に繋がるのである。たとえ画家の端くれで終わったとしても後悔することはないであろうと推測するのである。何故ならば悲願の自己実現を現実のものにしているのだから・・・・・・・ 正に Dream come true の話である。
2014.12.19
2014年も余すところ数日となった。私にとって激動の一年であったように思う。地方の芸術活動から中央展へとシフトしたまさに一大転換の年でもあった。年齢的にも最後のチャンスであるという認識で事に当ってきた。かっては一極集中の東京に負けじと頑張ってきたのであるが、展覧会の回を重ねるごとに一地方の文化の限界を感じるようになってきたのである。たまたま昨年、中央展が第60回の記念展を迎えるということで声がかかり、これを契機に一大決心は、些かの揺るぎもなく、実行できたのである。20数年前の分裂騒ぎは、一介の出品者であった私にとっては何のわだかまりもなく、また和解という認識もなく、移籍できたのである。かっての会の同士が今では中心的な役割を担っており、スムーズに移行する一因となった。私にとって現役作家生活は後10年と認識しており、この会で悔いのない芸術活動を送りたいと新たな闘志を燃やしているところである。
2014.12.26
2014年ありがとう !! 来年もよき年であるように ・・・・
2014.12.31
謹賀新年 2015
今年も一歩前進の年になるよう頑張りたい。
元旦
2015.01.01
新年早々に暗い話になるが、よい解決策の知恵を拝借できる機会になればと思い、敢えて取り上げた。最近の若者達のファインアート離れが、予想以上に進んでいるようなのである。私立美大の日本画特任教授をしている友人からその深刻さを聞いてびっくりした。個人的にはまだ先のことだろうと高をくくっていたのであるが、現実はすさまじいようである。昨年あたりから顕著になってきたとのこと。日本画、洋画、彫刻に応募する生徒が激減し、定員不足が大幅に生じているとのことである。ファインアート以外のマンガ、アニメーション、グラフィックD、デジタルメディアD は例年どおり健在のようである。ファインアートでは生活することができない現状を、知り尽くしていることに他ならないわけで、若者にとっては魅力を感じない要因となっているのである。貧乏を覚悟してでも取り組みたいという熱血漢がもう少しいてもよいと思うのであるが、今の社会では通用しない価値観のようである。真に寂しい限りの現状である。日本人口の割合から見てみると美大進学の比率は下がっていないようであるが、それに輪をかけるのが少子化の問題なのである。大学の存続にも関わる問題で大変のようである。これは我々が取り組んでいる公募団体展にも、その傾向が大である。若者の公募展離れはまさにその現象の一環なのである。実利ばかりを追い求める社会にあっては、ファインアートも育たない、芸術も育たない、文化も育たない等 etc. ・・・・・早くそれに気づき、対策を講じないと日本のアイデンティティーは、不毛地帯になると心配するのである。単なる杞憂で終わることを、願うばかりの今日この頃である。
2015.01.04
1月7日 フランスで風刺週刊紙シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)本社を襲撃して12人を殺害するというとんでもない事件が起きた。この事件を知った時に最初に感じたことは、やはり起きたかという予感であった。いつかはこのような事件に発展するような予兆が前々から見られたからである。数年前の日本の福島原発事故を風刺した漫画が、日本人の心をひどく傷つけた記事を思い出すことで甦るのである。風刺、パロディーなら何でも許せるという西洋人独特の価値観が、日本人である私には未だに理解できないのである。他人の悲しみや苦しみを風刺、パロディーで笑い飛ばすというあっけらかんさは到底理解できないのである。どこかの論調にあったが、白人社会の傲慢さがこのような風潮を作り出しているというのがあったが、一理頷けるものがある。白人社会というよりも西洋社会の共通認識かも知れない。アメリカのオバマ大統領が強烈な非難声明を出していることを考えると・・・・。思うに全人類の共通認識で事に当らないとこのような事件が、今後再発するような気がするのである。表現の自由も命がけでしないとこのようなことが起きるという重大な事例を残した。殺害を企てた張本人達が何と言っても一番悪いには違いないが、そうかと言って全てを責任転嫁できるものではないのである。西洋社会のもたらす価値観の押し付けや御節介、傲慢さ等を謙虚に反省し、悔悟するきっかけになることを願わずにはいられないのである。
福島原発事故の風刺漫画 (2013.9.12 )
2015.01.12
教育問題は政治や経済問題に比べて比較的に地味な扱いになっている。そのために子どもを持たない世代にとっては関心が低いように感じられるのである。最近、教育改革と称して提案されているのが、道徳教育の教科格上げ問題と小学校低学年での英語教育の義務化などは、早急な強行実施で目に余るものがある。教育現場や父兄、国民全体のコンセンサスのない状態で強行することは、アナクロニズムもいいところである。国を変えるには教育しかないというのは、よい意味で頷けるものではあるが、早急な強行実施には賛成しかねるのである。今までの例で言うと、強行実施した結果、その反動が倍返しで起きたことを思い出すのである。例えば、詰め込み主義教育の反省からゆとり教育に変わったら、十数年後には学力低下が大問題になったり、自己学力をつけるために総合教育を実施したら、興味本位の学習に傾き過ぎて基礎基本が低下したり、各学校の特殊性をもたらす教育に重点をおいたら、学力の地域差が顕著になり過ぎてその対応に四苦八苦しているなど etc.・・・・・まるで限りがないのである。道徳の教科格上げは実に可笑しなことである。道徳は知識ではない。他の教科と並列に扱うことはできないのである。教科にすると評価が伴うのである。それではそれをどう評価するのかという問題が生じるのである。評価する教師の主観に偏ってよいのかという問題が生じるのである。まさに戦前の修身に経ち返ることにもなりかねないのである。実に大きな危険性を孕んでいるわけである。小学校低学年の英語必須問題も、その反動と危険性が心配されるのである。日本語教育の低下と英語嫌いを益々助長しかねない危険性を孕んでいるのである。早くからやれば身につくというものではないのである。英語を使わねばならない必然性が生じれば自然に身につくものである。ネイティブ・スピーカーの達人を作っても日本語がまともにできなければ意味がないのである。国際人と言う前に日本人としての矜持を身に付けることが先決である。かく言う私は大の英語好きで、この年になっても下手な横好きをしている。もし英語嫌いだったらこんな見解はしないだろうと自負している。
2015.01.19
インターネットの情報はリアルタイムでの発信であるので、情報収集するには実に重宝する。しかし、誤報も多いので気をつけなければならない。新聞やテレビのようなメディアの発信情報は、一般的に信頼性が高いと過信されているところがあるが、これとても余り当てにはならないものである。ただ新聞・テレビ等の媒体は半永久的に記録されてしまうので、慎重を期することが暗黙の了解としてあるからである。しかし、明らかに間違い記事だとしても、あるいは訂正記事が出されたとしても、原本記事は絶対に消えることなく残るのである。しかも、その原本記事は真贋にかかわらず一人歩きをしてしまうのである。それに起因する諸問題が、現在続出しているのである。一方、インターネットの情報は誤報が多いと言われる諸悪の根源は、何と言っても発信元の責任が存在しないことから起こるのである。言いたい放題、書きたい放題のいい加減さが、この誤報の元凶となるのである。ただ、この中には貴重な真実を含んでいることも多く、必ずしも侮れないのも事実である。情報リテラシー、メディアリテラシー、科学リテラシーなどの和製英語があるように、現在必要欠くべからずの常識なのである。斯く言う常識も人によっては、不必要なものとして捉えている方々も結構いるわけで、不変な真理ではないのである。しかしながら刻一刻と変化する時代の流れは止められるものではないのである。頑なに拒否するだけでなく、受け入れていく柔軟性がないと今の時代を享受できないのである。
2015.01.27
19歳の女子学生による惨殺事件は、想像を絶するような衝撃的な出来事であった。昨年の7月にも九州の佐世保で、高1女子生徒による同じような事件が発生していることを考えると、とても看過できるものではないのである。女性の社会的地位向上を目指している国内の風潮とは裏腹に不穏なものを強く感じるのである。長いスパンにおける希少性の事件ならば、一過性の特異な事件として片が付くのかも知れないが、たった1年の間に2件も立て続きに起きている事実は、当に尋常ではないのである。報道にある情報の片鱗で多くを語ることには、戸惑いがあるので差し控えたい。一国民としてその事件の全容解明には強い関心がある。また社会的傾向を知る上でも注目する必要がある。事件に蓋をすることなく公表してほしいものである。ただ未成年の事件であるだけに、どこまで開示できるかは法律の判断に従うしかないが・・・・・
2015.01.31
中東情勢がまたもや危険な状態に突入した。日本人を巻き込む人質事件は理不尽の一語。何を言っても、何をやっても、まさに糠に釘のような事件であった。安倍総理の中東訪問の中で発した一言 「 中東の安定のために2億ドルを支援をする 」が引き金になったようだ。この言葉にはテロ撲滅のための意味合いが含まれているわけで、俗称「イスラム国」と名乗る集団の逆鱗に触れたようである。国際社会の規範を全く無視し、自分達だけの価値観で、しかも暴力でまわりを支配しようとしている。宗教を隠れ蓑にやりたい放題の蛮行をしているのである。こんな理屈に合わない行動は、彼らが信仰する神にも背くはずだが・・・・・勝手に聖戦と称して正当化しているのである。このような相手には何を言っても、何をやっても筋は通せるわけがないのである。今回の事件で日本人二名の方々の貴重な命が犠牲になった。亡くなった方々には心より哀悼の意を表したい。ただこの事件の結果から安倍総理を代表とする政府に対して、これまた理不尽な責任論を述べ立てている一部の勢力には呆れてしまうのである。「総理があんなことを言うから、こんなことになったんだ」とか、「身代金を払えば命は救えたのに」とか「国際社会への貢献と称して米国追従ではないか」とか etc. ・・・・・結果だけで論じている偏狭な了見には、ただただ呆れるばかりである。確かに何も言わなければ、こんなことにはならなかったかも知れない。また身代金を払えば救えたかも知れない。( しかし、そんな単純な相手ではないのである) 莫大な身代金を払えば勢力は益々拡大化し、他国が第二の犠牲になる可能性が高いのである。自国さえ良ければの考えは、今の国際社会では通用しないのである。国力に見合った国際貢献をすることが一般的な国際社会の良識で、将来の日本にとってもプラスになるはずである。国際社会が一丸となってテロとの戦いに挑む力の結集こそが、撲滅に繋がるものと確信するのである。
2015.02.06
第9回 モナコ ・ 日本芸術祭 2015
会 場 : 国立レニエ3世オーディトリアム
主 催 : モナコ公国文化庁 / モナコ公国政府観光会議局
共 催 : ユネスコ公認国際美術連盟モナコ公国委員会
KK麗人社
出品並びに公式ツアー 〔 2015/02/12 (木)〜 02/18 (水) 〕 に参加をした。モナコ美術協会共同の展覧会
主催者である モナコ公国文化庁 と モナコ公国政府観光会議局から 「 モナコの薔薇 ( ローズ・ドゥ・モナコ ) 」 賞を受ける。
2015.02.22
第9回モナコ・日本芸術祭2015 メモリーズ NAGURA HIROO
2015.02.24
第 9回モナコ・日本芸術祭 2015 では文化の国際交流を大いに深めることができたと思っている。その成果については今後の活動にプラスになるものと確信している。
ただ、いつまでも余韻に浸っているわけにはいかないので、次回の発表に向けて、心機一転をする。・・・・・・・・しばらくの間、制作に集中するので HP 更新は暫し休止としたい。
2015.03.07