画家の眼 ⑤
思いつくままに綴っている徒然文・画家の眼も早、三年が過ぎようとしている。当初は1ヶ月に1回ぐらいの更新であったのが、最近は自分でもびっくりするぐらいの頻繁さである。黙ってはいられない緊迫した状況にあるからだと自問自答している。特定の誰かに向けて発信しているわけではない。自分の日記のようなつもりで書き綴っているわけである。絵を描くのは右能で、文章は左脳でというふうに、バランス感覚を身につけるためにやっているようなものである。絵と文章は私にとっては反比例の関係にある。絵を描きだすとそれに集中するので、当然、文章は書けなくなる。こうして頻繁に更新している時は、絵を描いていないぐうたらな状態に陥っている証拠でもある。
2012.10.16
小さな我が市に美術館建設にまつわる問題が起きている。公設の美術館がまだない市に、芸術院会員の一作家の美術館を造ろうという話が持ち上がっているのである。我が市はどちらかと言うと保守傾向の強いところがあり、御用市町村といってもよいくらいの市である。元々、この話は一部の役人主導から持ち上がったものである。権威主義に弱い市民をよいことに強引に押し進めようとしているのである。芸術院会員の作家は国家から絶大な庇護を受けている特権階級の作家達である。毎年250万円の報奨金を終生貰っている官僚待遇の作家なのである。御用作家を芸術家と呼ぶには、あまりにも次元が低いと言わざるを得ないわけである。権威主義や権力主義 、そして体制主義等の打破が芸術の本来の姿であるというのが、世界の芸術家の共通認識である。御用作家は芸術家の名を借りた役人なのである。
昭和30年代から40年代にかけて社会問題にもなった。その先鋒をきった方が美術評論家・文芸評論家の針生一郎氏である。その当時、官展系を除いた在野のほとんどの美術団体が針生一郎氏の唱えた芸術院廃止の運動に協調したのである。しかし、当時の国家の権力は強く、押し切られてしまった。それが未だに既得権として存続していることに問題があるわけである。そんな特権階級の作家が全国の末端市町村において、またもや恩恵を享受することがあっては、絶対に許せないというのが本文の趣旨である。
現在のような財政危機の時代に市民の血税で一作家の個人美術館を建てる前に、誰もが利用できる公共の美術館を建てるのが先ずやるべき筋ではないのかと強く言いたいのである。
2012.10.21
第18回 秋の創日展を開催します。
第18回 秋の創日展は盛況のちに終了致しました。ありがとうございました。 2012.11.11
秋の創日展終了後、ホットする間もなくいろいろな出来事に遭遇してしまった。その処理のため約1ヶ月程多忙な日々を送った。やっと最近、いつもの生活に戻ることができた。平穏な日々の有難さを身をもって感じとる今日この頃、来年度こそは明るい希望のある年を迎えたいと意気込んでいるところである。
2012.12.11
三年前の政権交代は日本にとって何をもたらしたのかと問うた場合、明快な回答は得られないだろうと予想している。現時点では前政権の総括はなされておらず、曖昧模糊としている。ただ言えることとして前政権は既成概念の打破に一石を投じたことであろう。ただ、それが中途半端であったために、却って混乱を引き起こしてしまう結果となった。全てがそうであったわけではないが、マイナス点が多すぎたため、よい面がかき消されてしまうこととなった。
それだけに新政権には期待度が高くなり、今後の行方が気になるところである。失墜してしまった日本を早く立て直すことが急務である。有言不実行であった前政権の二の舞にならぬよう、着実に挽回をしてほしいと願うのは私だけであろうか。
2013.01.23
本日発売のBiND6が自宅に届いた。早速バージョンアップをしてみた。見かけは前のものと変わりがないが、今後いろいろなトライができるので楽しみにしている。新しい拡張機能を習熟しながら進めていきたい。一番の楽しみはWordPressの連携である。また、スマートフォンのテンプレートも活用したいと思っている。
2013.01.31
昨年の暮れに政権が替わり、今年は大きな変化が起きている。低調であった経済も円高是正で復活しようとしている。まだまだ安心できるような状態ではないが、好調に滑り出している現在、誰もが明るい期待に胸を膨らませているに違いない。このどん底から這い上がるための政治的策略が効を奏しているのを見て、日本国民として誇らしくさえ思う。アベノミクスと呼ばれている経済対策はどんな効果なのか具体的には見えてこないが、そのうちに知ることになるだろうと予測している。今は手の内を見せないほうがよいことは当然なこととして分かる。一部の国が批判をしているが、日本としては今まで遠慮してやらなかったことをしようとするだけで何ら気兼ねをする必要はない。名指しは避けるが、裏で為替を操作して自国優位の方法をとっていた国々がいるのに対して、日本は裏ではなく、表で堂々とやってるわけで、決して恥でも何でもないことである。ある国などは自国の経済を守るために固定相場にして、他国の配慮をすることもなく、荒稼ぎをしている国が現にあるではないか。日本に対してだけ文句を言うのはお門違いというものだ。日本の景気対策が効を奏している、そのねたみが批判の本質なのである。通貨戦争と大げさにメディアが騒いでいるが、今までもあったことで取り立てて騒ぐほどのものではない。例えば、自国の通貨を優位にするために裏で新しく紙幣を刷ったり、出回る紙幣の数を制限したりすることなどは、どこの国でもやっていることである。日本は今まで真面目すぎてそれらの宝刀を抜かなかっただけのことである。円高というのは国際社会において信用度が高いということでうれしいことではあるが、反面、実質的なメリットがないので、昔で言う「武士は食わねど高楊枝」的な考えではすまされないシビアなものがある。
芸術活動においても、この手法は同じである。手の内を見せることは知的財産の喪失に繋がるので、作品を発表するまでは内緒のうちにやるのが常である。ただ明らかに違うことは芸術は個人、政治は大衆が大前提にあるので最終目標が明らかに違うことである。しかし、明るい夢を人々に与える使命は共に同じである。
2013.02.04
中国のレーダー照射事件は極めて遺憾な事件である。一歩間違えれば戦争に突入する事態に成りかねない。日本には憲法9条があり、武力行使を禁止していることを手玉に取り、執拗な挑発行為を繰り返している。その度合いが最近、日増しにエスカレートしている。大国意識があるなら、自国の利益の追求ばかりをせずにもっと国際社会に貢献するおおらかさが必要であると思うのだが・・・。大国意識を持ちながら都合が悪くなると、まだ途上国であると言ってみたり、身勝手な行動を取りすぎているのではないかと思える。これではとても大国とは言えるものではない。ご都合主義は国際社会では通用しないことをもっと認識すべきであると言いたい。しかしながら、こんなことを言っても中国に直接伝わるわけでもないから空しさを感じる。今の中国は何を言っても心を開くような状況ではないと見ている。今までは米国が抑止力になっていたが、今では自分達の方が上だという自信過剰の意識が強く、自国中心に物事を考えている。国際社会の規範を勝手に作りかえられたら困るのは近隣国家である。しかも、武力で無理やり主張を通すやり方は迷惑千万なことである。今それを強行しているのが中国なのである。この状況を多面的に考察している論調があり、興味を引く。尖閣諸島の問題は、中国バブルの崩壊の失政をナショナリズムを煽って国民の目からそらしているとか、国民の不満を反日に向けて扇動し、息抜きをしているとか、一党独裁主義の極限状態を回避するために責任を他国に押し付けているとかなど、どれをとっても的を射っている。我々日本人としては、これらの問題を反面教師としてとらえ、それを教訓に最善を尽くすしか道がないのかも知れないと、些か物言えば唇寒しの感をぬぐいきれない状態に陥っている。
2013.02.06
今を生きる我々人間は、どこの国の人間であろうと同じような環境の試練に煩わされている。自給自足で一人だけで生きていこうとしても、できないのが現実である。いろいろな共同体に所属したり、いろいろな組織に所属したりして生きているわけである。否応なしに、そうしなければ生きてはいけない暗黙の掟が存在するのである。その枠組にのれない場合は自由に脱出できるシステムが存在すれば人間は絶望の窮地に陥らずに生きていくことができる。その自由度が大きい国は民主化が進んだ国と言える。そういった国々を我々は先進国というわけである。いくら金を持っていようが、高度の技術を持っていようが、その自由度がない国は民主国家とか先進国とは言わないのである。言論や思想を統制したりする国は、本来人間の持っている生きる自由を奪っていることである。他人と違う意見を言えない雰囲気があれば、当然として創造活動などは期待すべくもない。創造活動ができなければ文化は育たないなどの悪循環だけが生じる。また、自由のない生活に慣れすぎてしまうと、その疑問すら感じなくなり、体制側の言うなりになってしまうのである。そこに教育という名ばかりの洗脳学習が国家ぐるみで行われているわけである。それに気づいているいる人々もいるが、少数派ではなす術もないのが現実であろう。国を脱出する選択しかなく、残念としか言いようがない。それのできる人は幸運で、ほとんどの人々は我慢して生きていくしかないのである。同じ人間としてこんな過酷なことがあってよいものだろうかと思わずにはいられない。
2013.02.07
情報化時代と言われている現在、国際的にも飛躍的にネットワークづくりが拡大してきている。インターネットが現在のように実用化されて早20数年が経過しようとしている。これほどまでに発展するとは誰が予想できたであろうか。インターネット以外にも情報通信機器は電話、ファックス、無線通信器などがあるが、どれをとっても機能が単一的でネットワークづくりに限界があった。しかし、インターネットはこれらの機能を全て備えており、瞬時にしてネットワークを構築できる魔法の杖のような性能を備えているわけである。はじめの頃はインターネットの効用について賛否両論があり、その記事でいつも出版業界を賑わせていた。私はどちらかと言うと新しいもの好きなところがあり、早い時期からこのインターネットに興味をもち、取り組んできた。当時パソコン通信をやっていたので、その延長としてすんなりとインターネットに入ることができた。当時のデジタル変換機(モデム)は低速で、今とでは雲泥の差があったものだ。しかし、初めてインターネットへアクセスできた時は無上の喜びを味わうことができた。Windows3.1の頃であるので、今から約19年前のことである。その後、高速モデムに変えたり、ISDNに変えたりして、そして2002年には光フアィバーに変えて、現在に至っている。光フアィバーでも速さが最高100Mbpsから今では1Gbpsに変化して、劇的に高速化している。インターネットを例に、激変するスピードに付いていけない人々は否定的な見解を述べるのが普通である。ところが現在のように恒常的な進化をしてくるとケチのつけようがないわけで、今までの反対派はだんまりを貫くか、手のひらを返して賛成派に鞍替えをするしかない状況になっている。私の友人の中にもこれに近い者がいて、会うといつもこの話題で花が咲く。今ではFaceBookまでやっており、びっくりするくらいインターネットにのめり込んでいる。このインターネットもメリットばかりてはなく、デメリットも当然あるわけで、それを承知して使えば問題はないはずである。
新しいもの好きが続く限りは、私にとっては精神の衰えはないものと確信している。何事も諦めずにトライすることが創造活動の根幹であると、我が身に言い聞かせているところである。
2013.02.10
今の若者は内向きで覇気がないということをよく耳にする。これも時代の流れだと割り切ってしまうのも、何か後味の悪いものを感じる。これは日本だけの現象なのか、それとも世界的な傾向なのかよく分からない。しかし、学生の海外留学者の数が諸外国に比べて大幅に減少していることは事実である。この原因がどこにあるかが問題で、やはり憂慮すべき事態と考えてよいであろう。今の若者は勉学心が衰えたのか、あるいは経済的な理由がそうしたのかはっきりしたものが見当たらない。発展途上国の若者は留学熱が高く、米国や英国、仏国などの先進国への進学率が高いのに対して、日本の若者は逆に低下をしている事実がある。もはや学ぶべきものがないと高をくくっているとしたら問題である。今や日本は先進国と言っても憚ることはないが、全ての分野がそうあるかは疑問である。まだまだ学ぶべき国々がたくさんあるはずである。未知の外国へ出かけて行って、学ぶという気概がほしいのである。また、その積極性が日本の将来にとって、とても必要なのである。今の日本は活力が見られない状況であり、まさしくピンチの状況である。それを乗り越えるにはそれを跳ね返す、若さが是非必要なのである。円熟した日本と言われるよりも、活力ある日本と呼ばれたほうが将来性がある。今の若者は知識は豊富ではあるが、それを生かす実践力に問題がある。失敗を恐れずに前向きに取り組むエネルギーが不足しているように感じるのである。実際にやろうとしないで、はじめから先を読んでしまい諦めてしまうのである。あまりにも若年寄りが多すぎる。もっと若さを武器にして尽ぎり、戦ってほしいと思うのである。早いうちから結論を出さないで、どこまでやれるか実際に挑戦してから答えを出してほしいと願うわけである。10年、20年の長いスパンで捉えた取り組みが、今の若者には必要なのである。もし、これらのポイントが留学熱の欠如に繋がっているとしたら大きな問題である。日本の将来に大きく関わるわけだから・・・・・。
2013.02.11
最近は宗教離れが著しいということをよく耳にする。この現象は日本だけではないようである。世界中がその傾向にあり、一種の時代現象の様相を呈している。科学万能の時代には宗教は必要性を欠く存在なのかも知れない。しかし、科学だけでは解決できない心の問題が存在するわけで、その問題の解決には宗教の役割は大きいものと捉える。宗教は理念の世界であり、現実離れしたところが確かにあるが、理想を求めたり、心の安らぎを求めたり、反省心を培うためにはなくてはならない存在であると思う。人間の上に存在する神や仏の存在を意識することで自分の力の限界を知り、反省の心や摂理の心が芽生えてくるものなのである。人間は、誰しも良い心と悪い心の両方を持っているものであり、それをコントロールしてくれるのが宗教心であると考えるわけである。「そんなことをすると罰が当たるよ」とか「きっと神様や仏様が守ってくださるよ」のような言葉は、宗教心に当たるものである。また、信じる心がなければ、この言葉は通じるものではない。人間の力を遥かに超えたところに存在する神や仏を信ずる気持ちは、人間にはない神力、仏力の畏敬の念を育む心である。これは取りも直さず、大自然の畏敬の念に通じるものである。この存在を否定する者は、自分の力を過信したり、思い上がりの心をコントロールできないものなのである。限りない欲望を抑えることができず、また、善悪の気持ちさえも萎えてしまうのである。こんなことになったら世の中が混乱することは必至である。現に宗教を禁止している国を見れば、その兆候がはっきり見られるのではないだろうか。実に憂慮すべき問題であると考えるのである。我が国もこうならないよう、国民一人ひとりがこの問題を、深く認識をして、まともな国家であり続けることを切に願わずにはいられない。
2013.02.112
体罰の問題が毎日のようにクローズアップされている。これを見ていると何かやりきれないものを感じてしまう。それは何故かというと、問題が大きくなると、いつも紋切り型の発言が大勢を占めてしまことである。排他的な雰囲気は真実を覆い被せてしまうものである。ここで私が言いたいのは、何事も度が過ぎぎると害が生じるものではあるが、程ほどの対応は必要ではないかいうことである。全てを否定してしまうと、返って反対の害が生じるものだと心配するわけである。子供が成長していく過程で、時には体で身に付けさせなければならない事がある筈である。自分の子供に一度も手を出したことがないと言って自慢げに話す親がいるが、それが本当によいものなのか再考してほしいのである。このように育った子供の多くが自己中心的で、社会性のない子供に育っている場合が多いのである。また、これらの子供の多くは、事が起きると殊更傷ついてしまい、立ち直りが上手くできないのである。私たちの時代は親や教師の体罰は当たり前として育ってきているので、必ずしも体罰が悪いとは思えないのである。言い聞かせれば済むことだと簡単には捉えられないのである。言葉だけでなく、体で身につけることも多多々ある筈であると思うのである。善悪の判断や士気高揚、たくましい人間づくりには欠くべからずものであると確信している。今の時代は、このような発言をすると少数派に入るのかも知れない。しかし、少数派の意見も尊重される時代に入ってきているので、敢えて述べることにした。
2013.02.14
今の日本は民主化の進んだ国であり、幸せいっぱいの国だなあとつくづく思うことである。何を言っても、何をやっても法律に触れなければ問題になることもない。政治家が国益に合わない発言をしたり、行動をしても袋叩きになることもあり得ない。昔では国賊として迫害されていただろうなと思う方々が、平然として暮らしていけるのである。民主化が高度に進んだ証拠でもある。近隣国では日本ほど進んだ国は見当たらないのである。お隣の国では、未だに思想の統制や言論の規制が行われており、下手に国益に沿わない言動をしたりすると逮捕されたり、袋叩きにあったりしているのである。このような国では人間として生きていく自由が奪われているわけである。我慢できない者は国を脱出するしか方法がないのである。これらの国々では、今社会現象にもなっている。しかしながら、そのような状態が当たり前になってくると、国のアイデンティティーとして一人歩きをしてしまい、俗に言う 『変な国』 になってしまうのである。排他的なものの考え方や独断専行に走り、協調性が全く見られない状態になるのである。こうなるといくら対話をしても、平行線をたどることは間違いないわけである。力関係が対等になると、このような状態になるわけで、それを打開するには、国力を増大するとか、最先端技術をたくさん持って圧倒的優位に立つしかないのである。今がそのチャンス到来の時なのである。長い間続いた低迷期から早く脱出して、もう一度復活することを、国民の一人として切に願わずにはいられない。
2013.02.16
子供のいじめの問題がまたもや叫ばれている。この問題は不景気な時とか社会情勢が不安定な時期に、多発しているように思えるのである。大人の社会の縮図が、子供の世界にも表れてくる一種の社会現象であると言われている。弱肉強食の世相の表れと思えるのである。やるせない不満を弱者に向けて発散している行為は、経済格差や過酷な競争社会の現象と、表裏一体をなしているものと言えるのである。我々の少年期にも、このいじめは存在していた。しかし、今のいじめと質が違っていた。当時のいじめは圧倒的弱者は、いじめの対象にはならなかったことである。そして、他者の良さを認めて、許容する心があったように思うのである。勉強のよく出来きた子は、尊敬の眼差しでそれを認め、勉強のできなかった子でも、運動がすばらしければ、その能力を羨望の眼差しで認めていたような気がするのである。見るからに弱そうな子に対しては絶対に手を出さないという暗黙の抑えがあったように思えるのである。だから、その当時は自殺まで追い込まれた子供の存在は皆無であった。また、お互いの生活圏は、お互いに守るという限度があったような気がする。今のいじめは、昔にはあった限度や許容、抑止が存在しないことである。他者の良い点を認めようとせず、弱点を徹底的に痛め抜いてしまうのである。しかも、他人の生活圏まで入り込んで自由を奪ってしまう残虐さがある。やられた方は八方塞がりになり、希望がもてなくなってしまうのである。民主主義が高度に、進んだ国であるにもかかわらず、このような問題が生じるということは、国家的な恥と言える。簡単には解決策は見つかるものではないが、先ずは国民が一丸となって意識改革をすることが大切ではないかと思うのである。
2013.02.17
前回のいじめ問題 2 として・・・・前回では人対人のいじめについて述べたが、実際には一般社会の幅広い分野において存在する問題なのである。パワーハラスメントもいじめと同じ捉え方ができる。 ( 地位を利用したいじめ ) また、国と国との大きな関係 ( 大国が武力で小国を従わせることなど ) も、いじめとして捉えることができるものである。いじめの問題は、一筋縄では括ることができない複雑なものだという認識が必要である。いじめの定義は段階的な線引きをどこでするのかが、至難のわざである。特に心の傷は第三者には分からないものである。目に見えるようないじめは処罰の対象にはなるが、それとても証拠が存在しなければ成立するものではないのである。被害者と被疑者には、それぞれ人権があり、簡単には裁決できないのである。いじめで自殺した子供が残したメモを証拠として大々的に報道された例があるが、これとても真実性には疑問が残るのである。被疑者がいくら無実と訴えても聞き入れられない状況がそこで作られてしまうのである。こうなると今度は被疑者もいじめにあうことになるわけである。まさに堂々巡りである。前回、「 簡単には解決策は見つかるものではないが、先ずは国民が一丸となって意識改革をすることが大切 」 と述べたのも、そのことである。論理に飛躍があるのも、決定的な打開案が望めない以上、こう表現するしかないのである。
2013.02.19
人間には誰しも建て前と本音の両方を内包しているものではある。しかし、そのギャップが余りにも大きいと、その人の持つ人間性や人格をも疑う結果となってしまうものである。最近、その場面に直面したので、その感想を記しておきたい。ある懸案事項を役員の内輪の場で、十分に審議をし、それを提案する予定になっていた。ところが本番の総会で突如として、それを覆すことを、平然とやらかしたのである。あまりにも唐突で、怒りを通り越して、唖然としてしまったのである。一種のクーデターである。平然と行った方は、してやったぞとばかりの表情がありありとと感じられたのである。20数年前に起きた事件を喚起してしまった。ある一流百貨店の役員会で起きた事件のことである。どちら側の立場で捉えるかによって、解釈の仕方は様々あるとは思うが、やり方としてはスマートではなかった。また卑屈さをも感じた記憶が鮮明に残っているのである。明智光秀が主君の織田信長にした行為もこれに近いものであろう。贔屓目にしたとしても、光秀には軍配をあげられない結果を歴史は残しているのである。大方の日本人にはこうした行いは、背信行為とみなすのであろう。実際にそのような場に接しないと実感できないものかも知れない。この件は私にとって、実に後味の悪いものであった。それを見抜けなかった自身の甘さを認めるが、同時にこうしたことは絶対にやってはならないことだという認識をさらに深めるよい機会になった。
2013.02.25
政治は一般大衆の支持がないことには、いくらよい政治を試みても成果をあげることができない。それをよいことにして、大衆に合わせた政治に徹すると、今度はポピュズムに陥り、益々政治がおかしなところに行ってしまう。机上の空論では成り立たないのが政治である。かっては権力を握った一部の者たちによる強引な政治がなされた時代もあったが、今ではそんなことは絶対にありえないことである。国民一人ひとりが政治に参加をし、国民の声として政治に反映することが求められる時代なのである。まさに成熟した民主国家と言えるものであろう。それが今の日本国なのである。近隣諸国を見ても日本のような高度の民主国家が他にあるであろうか。言論統制や思想統制が未だに行われ、自由な発言ができないのが実態であろう。おかしいと思っても言えない不自由さ、他人と違った考えを持つことさえできない生活は弾圧そのものである。民主化が進めば、当然のこととして国民の民度は上がるものだと言える。情報化時代の真っ只中、いろいろな情報を簡単に手に入れることができる。それを生かす情報リテラシーを一人ひとりが身につけて、直接・間接を問わず政治に参加することが今求められている理想像なのである。
2013.03.20
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅰ・・・・作品を見比べた場合、ちょっと下手だなあと思われる作品は自分と同レベルにある。また、自分と同じレベルだと思われるものは、自分より少し上をいっている。さらに、自分より上をいっていると思われる作品は、遥かに自分より上のレベルに到達しているものだという認識が暗黙の内にある。人間というのは本来、自己には甘いものである。自分の作品をどうしても贔屓目に捉えてしまう結果なのである。また、すばらしい作品もレベルの低い作品群の中に並べると、そのすばらしさが潰れてしまう。反対にローレベルな作品をハイレベルの作品群の中に並べると、かえってレベルが上がって見える。これらの現象は、取りも直さず、視覚による相乗効果が生じるために、そうさせるのである。一人だけの作品発表では、このことは気づきもしないが大勢が参加をする展覧会ではそのことが如実に表れる。他人と競い合いながら技量を高めていくには、この過程を経験しないと身に付かないものである。そうすることによって知らずの内にレベルが高まっていくものである。最近の若者は、競い合うことを避ける傾向が見られる。この結果、公募展の参加が非常に少ない。公募展の参加は一部を除いて、どこも老人ばかりといった現象が生じているのである。これも時代の流れかも知れない。
素人と玄人の違いは言葉では説明できないが、これらの経験をたくさん積んだ者だけが分かる専門的な技量なのである。また、それが分かるようになるには相当の勉強が必要である。私は例えとして、よく英語を出すが、これは突如として英会話が理解できるようになる劇的な瞬間と同じなのである。そこまで到達した者だけが分かる必然の到達点がこの玄人の道だと言いたいのである。絵の話として取り上げたが、これは他の分野でも当てはまることであろうと推測している。
2013.04.06
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅱ・・・・絵は誰でも描けるものである。それだけにその専門性を言葉で説明することは難しいものである。それに対して音楽は専門性が明確である。音符が読めなければ楽器の演奏は難しいわけで、絵のような曖昧模糊とした技量が存在しない。出発点に高いハードルが立ちはだかっているが、それをクリアーすれば誰でも音楽家として通る。しかし、絵は誰でも描けるが、誰でも画家というわけにはいかない。そこには暗黙の了解が存在するものである。目にみえるような資格やレベルがあるわけではないが、根底にビジョンやイデオロギーがなければ画家とは言えない厚い壁が存在するのである。音楽家以上の高いハードルが立ちはだかっていると言ってよいだろう.画家も音楽家も共に、芸術家としての取り組みは同じものと考えてよい。また、最終到達点も、それぞれのスタートや内容に違いがあっても行き着くところは同じと捉えてよいであろう。・・・・飛躍するが、別の言い方をすると共に「自己との限りない挑戦」であり、またその信念を持っている者だけに存在する価値観なのかも知れない。
2013.04.12
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅲ・・・・絵は上手く描くことに主眼においてはならない。上手く描けるようになることは必要条件ではあるが、十分条件ではない。それを乗り越えたところに創造性が生まれるものである。いつも同じ完成度を目指しているとアルチザンの絵になってしまう。アーチストは同じところに止まっていてはいけないと言われるのは、そのことを指している。そして常に新しいトライをすることが芸術家としての使命でもある。絵の習い始めでは、この点に気づきもしないであろう。大抵は学習が深まっていくうちに、自然と気づくはずである。しかし、気づかない人もいる。これは、人が生まれながらに持っている感性や天性によるものかも知れない。絵は生け花や茶道のような習い事とは明らかに違うものである。伝承する文化ではなく、新しいものを造り出していく文化である。よって学習の到達点が自ずから異なるわけである。師匠や先生を乗り越えていくような気概がなければ創造活動は成り立たないものである。また、端的に言えば、創造は既成の文化の打破から生まれるものである。タブーを打ち破ることも必要なのである。・・・・・
2013.04.13
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅳ・・・・自分から画家と名乗れるようになるには相当の自信や裏づけがなければできるものではない。自称画家なら誰でも名乗ることができる。しかし、世間一般に通じるには、高いハードルが待ち構えているものだ。公募展で入選や受賞を重ねることによってそのハードルを越えていくのも一つの手である。有名な公募展に一回でも入選すると●●作家と言ってもてはやされるが、本人にとってはとてもそんな気になれるものではない。というのは自分一人の力で入選したのではなく、師匠と言われる先生の力が大きく作用しているからである。もちろん師匠なしに入選や入賞をする高い技量を持った者もいるので一概には言えないが、そういうのは極稀なケースなのである。名の通った作家の中にも、展覧会の出品作は師匠に下図を見てもらってからの場合が多い。以外に思うかも知れないが、これが現実なのである。独り立ちができない作家が、私は「画家です」とか「絵描きです」などと自信を持って言える筈がないわけである。一般の人々はそんな裏話は知る由もなく、一律に画家として捉えてしまうが、そういうことがあることも知っておくとよいであろう。独り立ちができて、初めて画家と言えるのである。すべての責任を自分で負える作家になるためには一朝一夕ではできるものではない。何十年とかかるのがこの画家の道なのである。
2013.04.15
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅴ・・・・他人の作品を見て素直に感動する心があるかどうかが大切である。しかしながら、簡単にはそのような作品に出会うことは少ないものである。お義理で「 感動しました 」 と言うことがあっても、心底からではないのが普通である。絵をやっている人とやっていない人では、感動の度合いが随分と違うものである。絵をやっている人は自分では描けない特殊な才能に着眼をし、絵をやっていない人は先入観をもたずに直感で感じとる。そこには当然として感動の隔たりが生じるわけである。どちらが良いとか悪いとかの問題ではなく、学習の度合いが感動に大きく影響してくることに他ならないのである。絵を観る目は、人間を観る目と同じものと考えられる。若い時には顔やスタイルにこだわるが、年を重ねていくと外見だけではなく人柄のよさや奥深さに目がいくようになるのである。そして自分の伴侶は、若い頃の理想とはかけ離れた人を選ぶのが常である。そこには前記の学習の度合いが大きく影響していることに気づくはずである。絵も同じであり、一見してきれいな絵では飽きがくるのである。深みを持った心の底を揺さぶるような絵が、実は伴侶を選ぶ時の感動と同じなのである。
2013.04.16
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅵ・・・・五万といる美術家を記録した年鑑があることは承知のことと思う。いろいろな美術の分野で活躍している作家を年次ごとに経歴を網羅した書籍のことである。美術家に憧れていた若い頃は、一度でもいいからここに記載されるような作家になってみたいと心ひそかに思ったものである。しかし、今ではこの年鑑もインターネットが普及すると同時に、その価値が半減をし、この書籍を扱った出版社などは軒並みに廃刊を余儀なくされているのが現状である。時代のニーズに沿わない業界になりつつあることは確かのようである。この年鑑は作家としてのステータスシンボルのような役目があったが、今ではそんな価値はもうないのが実状である。かっては個展をやったりする時などに、この年鑑を受付に並べて作家の証明をしたものである。今やそんなことをすると笑われてしまう時代になってしまった。昔ながらの作家は自分でHP (ホームページ) を作ることもできず、この年鑑にたよるしかないのでこれを重宝している作家もいることはいる。しかし、前記したように、すでに役目を終えた業界になりつつあることは自明である。
2013.04.17
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅶ・・・・美術好きや絵画好きの方々が思った以上に多いのに吃驚する。それだけ日本も生活に余裕が出てきた証拠でもあろう。自分では造ったり、描いたりはしないが鑑賞することが大好きという方々によくお会いする。この方々は確かに目が肥えているので、話の内容が高度である。鑑賞者のレベルが高くなってきている現状はすばらしいことである。それはよい一面ではあるが、まだまだ鑑賞者と作家との間には大きなズレがあることも事実である。このズレは狭まることがあっても決して無くなるものではないであろう。アートはスペシャリストの技であるので、学習を積んでいない鑑賞者にそこまで期待することは土台無理なことである。 アートは社会のニーズにこたえるために行っている活動ではない。そのことから、二者の間に認識のズレが生じるのである。また別の言い方をすれば、アートは商品を作っているのではなく、独自性 (アイデンティティー) の探求をしたものが結果として作品になるわけである。それをお金の価値で判断して、商品と同類で語ってはいけないのである。芸術性の高い作品は、そのことを如実に表している。遠い未来に向けて語りかけているのである。
2013.04.18
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅷ・・・・日本独特のアートシステムと言われている絵画公募団体展の存続に、危機が訪れている。この傾向は十数年前から徐々に表面化している。ちょうどPCが一般に普及し出した頃と重なっている。従来の絵画の領域である日本画とか油絵等、以外の新しい絵画 CG (コンピュータグラフィックス ) の出現から、この傾向が顕著になってきたように思われる。美術系の大学は従来以上に盛況であるにも関わらず、公募展に出品する学生が極端に減少している傾向が見られるのである。一部の有名公募展に集中することも考えられるが、それだけではない不安要因が存在するのである。日本画の部門で見ると、毎年日本画専攻の卒業生が全国で300人くらいは卒業していると言われている。卒業生の多くは公募展の出品をすることもなく、個展で発表することもなく、ともかくも潜行してしまっているのである。修行期間として制作に励んでいるならば問題はないが・・・私の知る限りではそうではなく、大部分が CG に方向転換をしている現状を把握しているのである。これでは、益々の存続危機が発生するわけである。公募展を運営している側では、彼らのような若い人材を確保するために出品料を一般より安く設定したり、年会費を半分にしたりして温情効果を狙っているが、さっぱり効き目がないのが現状である。この状態が十年も続いたら公募展の多くは自然消滅をしてしまうのは明らかである。一般企業と同じように団体展どおしの統合・合併を考えていかないと存続の危機を逃れることはできない。
2013.04.19
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅸ・・・・公募展 part 2 として、記したいと思う。近年、公募団体展の役割や意義に大きな変化が訪れていることを前に述べたことがあるが、現在まさにそれを強く実感しているところである。今年の3月まで小さな日本画の公募展の代表を務めていたこともあり、そのことが頭から離れないのである。ここ数年、若者の出品者が全く見られない状況が続いている。特に日本画にその傾向が強いのである。大きな団体は別として、この傾向が顕著のようである。社会情勢の悪化から余裕を持てない現在では、若者が制作を続けようとしてもできない環境があるのである。仕事と絵とどちらが大切だと選択を迫られると、仕事をとるしかないのが現実なのである。そんな中、期待する方が無理なのである。また、今の若者は昔ながらの手作業を嫌う傾向や長い修行を嫌う傾向があるのも要因の一つであろう。手っ取り早く結果が出る CG に走ってしまうのも仕方がないのである。需要も断然 CG のほうが多いので、当然かも知れない。しかし、これを時代の流れだと諦めるのは尚早である。この現状から打破するには、制作を続けることのできる環境づくりをすることが先決である。仕事やお金オンリーの社会から早く脱却して、余裕ある社会を官民一体で築くことからはじまるような気がするのである。
2013.04.22
絵の世界だけで通じている特殊な話 Ⅹ・・・・公募展 part 3 として・・・約30年前の公募展全盛時代を境にして徐々に衰微の状態が続いている。全盛当時はそれぞれの団体にはスターとなる人材が存在していたが、今ではほとんど見当たらない。これも時代の変化と捉えてよいのかも知れない。強烈な個性を持った作家の出現がないことに加えて、それを支える国や民間の支援不足がこの結果を招いた一因でもあろうと推測するのである。全盛期には新聞やテレビが大々的に報道をしてくれたものであるが、最近は抑え気味の報道ばかりである。たくさんある公募団体の公平な扱いを考えると、こうならざるをえないことは十分承知できる。また、財政危機が続いた昨今、国や県の支援体制が十分ではなかったことも大きく影響している。しかし、国情を考えれば当然の結果であり、これも時代の波と言える。それらに増して大きい影響を受けたのが、現代美術 ( contemporary art ) の出現である。大規模な構想で大衆をも巻き込み、都市興しに発展するイベントは、活動の輪が広がり、活性化に繋がるものである。このような大構想を考えると、公募団体展のあり方に変化が生じてくることは必至なのである。生き残りを賭けて各団体は、四苦八苦しているのが現状なのである。都美術館ではベストセレクション 美術 2013 なるものを企画しているが、その表れと言えるものである。よい企画ではあるが、この展覧会では有名公募団体だけを選抜して取り扱っている。中・小団体は目もくれないのは片手落ちといえるもので非常に残念である。姑息な対応が見え隠れするのである。
2013.04.23
洋画から日本画に転向して早いもので約30年になる。大学では洋画を専攻したのにも拘わらず、満40歳にして一大決心をしたのである。大学には日本画科などはなく、予備知識も全くないままに転向したのである。それを支えていただいたのが故杉山璋夫氏であった。絵心はすでに身についていたので、絵の具の扱いを中心に教示を受けた。自信のないままに日本画へ転向したことが大きな重荷になったために、体調不調に陥り、半年後には突発性難聴を患う結果となってしまった。治療の甲斐もなく、大半の聴力を失うことになった。一時は絶望のどん底に陥る日々が続いた。しかし、私にとっては、この絵が結局支えとなり、少しずつ自信を取り戻すことができるようになった。今日あるのはこの試練があったからこそ、ここまでこれたのだという自負の念がある。また、別の視点で捉えると、次のことが挙げられる。大学の卒論では『 洋画と日本画の接点 』 と題して発表しているので、頭の隅にこのテーマがこびりついていた結果、この道に進んだのではないかと思えることである。その卒論のために、亜欧堂田善、司馬江漢、歌川広重、葛飾北斎、渡辺崋山 等の研究を少々しているので、それが日本画への道に憧れる素地になったのではないかと、自分でも思えるのである。転向した当初、絵仲間から「せっかく20年余り続けた油絵を捨てるなんて・・・」とよく言われたものである。今となっては、油絵を捨てたのではなく、その知識が日本画の作画に生きているのだということを強く主張したいのである。まさに 「 急がば回れ 」 の心境である。
2013.04.24
日本画へ転向して以来、会場芸術 ・大作主義を標榜した川端龍子の考えに深く感銘を受け、それを指針に現在まで制作を続けている。 団体展には 300号大 ( 約 2×3メートルの画面 )の作品 2点の出品を責務として 25年以上が:経過した。これらの作品は普通の家庭では展示は無理なのである。何故、そんな大きな作品を制作するのかという質問をよく受けるが、「 自己への挑戦 ( アイデンティティーの証明 ) です 」 としか言いようがない。「 こんな大きな作品では売れないでしょう 」とか「 絵の具代がすごくかかるでしょう 」 とかの経済的な心配をよくしてもらう。私としては、そんな金勘定は、眼中にないのである。しかも、制作費の元を取ろうと考えたこともない。だから毎年、この展覧会のために数十万円はかかる資金の捻出に、四苦八苦するのである。自分の信念から生じた仕事であるので、簡単には止めるわけにもいかず大変である。一生の仕事 (ライフワーク) として捉えているので長期的戦略が必要となる。制作の資金はなんとか、継続的に工面できる環境になったので、今後は気力や体力の問題になる。この大きさの作品を描くには膨大なエネルギーを必要とする。誰でも簡単にできるというものではなく、長年の経験の積み重ねがあってこそできるものである。この道に進んだ者にしか分からない特殊な話なのかも知れない。
2013.04.25
作家にはいろいろなタイプがあって人様々である。他人がとやかく言えたものではないが、こうありたいという独自の作家像がある。私は前に述べたように川端龍子の唱えた会場芸術の考えが強く、展覧会を第一優先に取り組んでいる。しかし、この考えは誰でも同じと言うわけではないのである。中には展覧会は二の次で、売り絵第一優先で取り組んでいる作家もいる。展覧会には程ほどの作品を出品して、作家としての体面を濁らしているのである。作品を見れば一目瞭然で分かるのである。他人がとやかく言えたものではないが、展覧会を運営する立場になるとこれは看過できないことである。他の出品者に面目が立たないことでは、今後の運営に差し障りが生じるからである。作家としてのメンツにかかわることなので、対応が難しいのである。忠告をしたために退会をしてしまう作家も多いのである。簡単に退会するようでは信念のない証拠でもある。絵に情熱があるならば次回の展覧会には頑張る筈なのだが・・・・。 お金のために絵を描くというのは、芸術家を目指す者にとっては純粋さを欠く行為と言える。もっと高い目標を立て、次元の高い仕事をしてもらいたいのである。
2013.04.26
芸術活動を職業と同類で見るからいろいろな誤解が生じるのである。純粋な自己表現が芸術活動の根幹をなすものであり、職業とは一線を画すものというのが私の持論である。制作した作品が後にお金の価値に変わり、売買されるのは世の中の道理であり、問題はない。 しかし、はじめから金儲けのために行う活動では、芸術活動とは言い難いということなのである。・・・・やや話が袋小路に入り込んでしまったようである。芸術観についてはいろいろな捉え方があるので、後の判断は読者に委ねたい。
2013.04.27