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< How to live ? > is my subject matter.
And I will show you my identity.
As an artist and as a human being.


画家の眼 ④ 







 年の功か日本画家と名乗ることが平気になってきた。絵を始めて約40数年経過するが、この年になってやっと絵というものが分かりかけてきたような気がする。限りない目標に向けて前進したいと自分に鞭を打っているところである。死ぬまで続く修行の場が私にはこの絵であると考えている。もちろん定年なんてない。一生の仕事と自覚をしているわけである。自分に与えられた性(さが)、業(ごう)、使命のようなものである。これも健康でないとできるものではない。いつかはこの目標も萎えてくる時がきっとくるものだが、その時はその時で考えればよいと思っている。いつまで続けられるかが自分にとっても大きな楽しみでもある。







                                         2012.06.02








 政治と芸術は政教と同じように分離したほうがよいのかも知れないが、敢えて触れてみたいと思う。現在の日本では政党政治のあり方が岐路にさしかかっているように思えてならない。政治家一人の力ではできない政治的概念を同じ考えをもつ同士と結束して大きな力にしたいと生まれたのが政党政治であろうと解釈している。しかしながら最近の政治を見ていると政党人でありながら個利個略に走った勝手な判断で行動している政治家を垣間見て、これが政党政治なのかと疑う場面に多く接する。所属政党にいたら勝手な言動は慎むべきものだという考えが私にはあるが、それが堂々と打ち破られてへいへいとしている。それが許される時代の変化に突入しているのかも知れない。この政党政治の他に最大多数の政治の概念も最近では通用しなくなっている。一頃前までは最大多数の最大幸福という概念が一般的であったように思うが、今ではマイノリティーの意見も大事にされ、マジョリティーの強みが価値を下げてきている時代でもある。簡単に物事を決められなくなった時代に入ってきているとも言える。その現状が今の日本の政治にも当てはまるのかも知れない。話を芸術活動に変えて考えてみたい。芸術はもともと個人の創造活動を規範に行うものである。政治とは一線を画する考えがあるが、歴史を紐解くと政治と同じような離合集散を繰り返して新しい芸術の波を造りだしている。ひとりの力は微々たるものであるが集団の力は大きいものがある。その大きい力が時代のペースメーカーとなって時代を切り拓いていく。政治と似たり寄ったりかも知れないが、芸術の道は集団で活動していても最終的には個人の創造力に帰趨するものである。





                                         2012.07.01






 政治家を分析していくと不思議なことに行動・思考パターンが読めてくる。一種の法則のようなものがある。大前提に新しい政治をと言いながら実は何十年前にやったことを繰り返していることが多い。O氏の新党結成もそのことが如実に現れている。時々の時代背景によって効果的な立党であったかどうかは歴史が物語ることである。信念のある政治家かどうかも今までの行動・思考パターンで推察することができる。ぶれの大きい政治家は信念で行動をしていない。その時々の損得感情で行動していることが多い。誰でも多少は信念を捨てて、損得感情で行動するものであるが何度もやるとその本心が透けて見えてくるものだ。芸術活動もこれに近いものをもっているが、決定的な違いは真の創作は行動・思考パターンが読めないことにある。予想できるようなものは真の創造ではないとも言える。世相に迎合したものは一時は支持を得ても長続きはしない。また迎合したものかどうかもこれまでの行動・思考パターンで読み取ることができる。絵で考えると、市場に出回っている売り絵の多くはこれにあたる。真の芸術性の高い絵はもっと先の未来を表現しているものである。これを見分けるには高度の分析能力が必要である。芸術家出身の政治家であるⅠ氏の場合はさすがに機微に富み、簡単には行動・思考パターンが読めない複雑怪奇なものをもっている。(Ⅰ氏の他、パターンが読めない方にかって党首経験のH氏がいるが、彼の場合は機微に富むというよりも口が軽すぎ、思いつき発言で支離滅裂な方だから論外とする。) 話をⅠ氏に戻すと、彼は信念で行動しているので、打算が少ない。強烈な言動で世間の反発を受けることも多い。時として常識はずれや問題発言があるが尾を引かない、実に頭の良い術をもっている。政治家や芸術家に限らず、誰においても本人自身では気づかない無意識の思考は、細かく追求し、分析すると分かってしまう恐ろしさがあることを認識する必要がある。






                                         2012.07.03






 今の日本の政治をみていると一言も二言も言いたくなってくる状況である。この人なら日本を任せてもよいという政治家が一人もいないことだ。情報社会の恩恵によって、いろいろな情報を知ることができる。しかし、情報があり過ぎることも判断を迷わす要因になっている。政治に興味のある人にとってはその情報の分析に厭目をつけないが、興味のない人にとってはどうでもよい問題になってしまう。政治に関心のない人や無党派の人が増えていることもにも繋がっていると思われる。反面、テレビや新聞だけの情報で満足してしまっている多くの日本人にとっては偏った情報を鵜呑みにしている現状が、まだまだ多く見られる。政党のマニフェストにあるキャッチフレーズだけを信じて、大局を見ないで判断してしまうと、現在あるような失望感を味わうことになる。政治家の中にはこれをうまく利用して政権の座を得ようとする心無いものもいるわけで、それを見抜く力が必要となる。民度が低いと現在のような混乱政治になるのは間違いなしである。そうならないためにも国民一人ひとりが責任をもち、高い民度で国政に参加をしていきたいものだ。





                                         2012.07.04







 今の日本の政治は明らかにポピュリズムの方向に走っているような危惧を感じさせる。大阪や名古屋などの市政、また国政で起きていることに目を向けてみると、そのことが如実である。市民や国民の大勢が望んでいると思われる事項を大スローガンにして、受けの良い政治を展開しようとする人気政治がまかり通っている。税の問題や原発などの問題は誰もがすんなりと受け入れられない問題である。誰もが反対できないことを手玉にとり、あたかも国民の味方のような幻想を抱かせ、大衆受けとしか思えないような次元の低い状態に陥っている。このような政党が政権をとるとすぐ破綻するのが目に見えている。大勢が望んでいることが必ずしも正しいわけではない。国民の多くは政治については素人でノウハウを知らない。目前の判断しかできないのが普通である。それに対して政治家は政治の専門家であるはずである。広い見地から捉えた確たる政策をしっかり明示し、それを国民に分かりやすく導いてほしい。またそれをする義務があるはずである。その努力もしないで大衆に迎合することは許されない。国を滅ぼすことにつながりかねない。独裁政治では民衆の怒りがいつかは爆発することは必然である。しかし、日本は民主国家の先進国であるはずである。多くの日本人はたとえ増税になったとしても、国の将来を考えればしかたがないこととして受けとめるはずである。政権をとるがために目先で釣るような、国民を愚弄するようなごまかしの政治から早く脱却してほしいと望むのは私だけであろうか。





                                         2012.07.07







 巷では反原発のデモが広がりを見せている。昨年の東日本大震災・福島原発事故は他人事ではないシビアなものを感じた。事故によって汚染された地域は除染されない限り半永久的に復帰は不可能という事実を知って愕然とした。被災された方々を思うと反原発を即、主張するのが筋かも知れないが、いろいろと調べていくうちにそんな簡単に結論の出る問題ではないことを痛感するようになった。原子力の平和的利用が原発であるということから世界の多くの国がその恩恵を受けているわけである。昨年の未曾有の震災が発生しなければ誰もがその平和利用を享受していた筈である。想定外の大津波が発生しなければ、これほどの大事故にはならなかったし、また発生時の対応が適切であればあのようなメルトダウンすることもなく、終息できたのではないかということが判明している。天災ではあるが人災の感も拭えないことを事故調査委員会 (国会、民間、東電、政府の調査委員会のどちらかの報告書より) が表明している。その時の国家の首長が保身に走り、責任転嫁をしていることも事実としてある。電力会社が全責任を負うのは致し方ないことではあるが、それを指導・監督、そして奨励してきた政府の責任はもっと大きい筈である。しかも事故処理中に脱原発を唱えた首長には、立場を考えない公私混同の無責任極まりないものを感じた。原発を推進してきた政府の長が言うことではない。その後、新政権に交代後、停止中の全原発から一部再稼動の方針を示したところ予想以上の反発が国民から起きている。電力不足による弊害を考えると一部稼動は仕方がないのではなかろうかと個人的には考えるが、納得しない人々も当然いる。 ( 計画停電があっても仕方がないと考える人々もいる。反対に、停電すると命に関わる問題にもなるから困るという人々までいて、一筋縄ではいかない。) 電力需給が十分ならば原発はすぐ中止するのは当然である。しかし、今まで原発に依存していた電力を何の代償もなくストップしたら、どういうことになるかは一目瞭然である。しかも、この問題を政治の具に使ってポピュリズムに陥っている政治家こそ問題である。大衆の多くが望んでいるから真理だと思い込み、強引に進めようとする政治は少数派意見の抹殺につながることでもあり、大変危険でもある。原発問題は即、賛否を問うのではなく、十分検証し、条件の整ったところで国民に信を問う必要があるのではないかと思う。
 今の日本は原子力というとデメリットしか考えられない状況下にあるが、果たして全てがそうなのか冷静に考えてみる必要がある。原爆被災国としてこの問題は特に敏感になるのは当然ではあるが、平和利用の観点からすると研究の場をここで閉ざしてしまってもいいものだろうか。今回の教訓を最大限生かして、今後の平和利用に貢献することが資源の少ない日本には必要ではないかと思われてならない。




                                         2012.07.18







 反原発デモが日増しに大きくなっていくのを見て、これを傍観しているだけでいいのかと自分自身を苛むことが多くなり、居ても立ってもいられない状態だ。デモに参加される方々の多くは自分の考えで行動を起こしているわけで、他人がとやかく言えるものではないが、中には雰囲気に流されてしまって参加をしている方々も結構多いのではないかと危惧をしている。このデモには多くの著名人の参加が見られる。この方々の発言は説得力があり、ファンにとっては絶対的な影響力を与えることは言わずもがなである。俗に言う雰囲気につられて行動してしまう扇動化現象のことである。また、それに輪をかけるのがポピュリズムの政治家の掛け声である。冷静に考えることができなくなってしまいそうな危険性をも感じさせる。まだ暴力による実力行使はないが、ちょっとしたきっかけでそうなる可能性も否定できない。今の日本では原発推進派的な意見を言ったら敵陣にされそうな雰囲気が漂っている。原発がなくても電力をまかなえることができるならばそんなよいことはない。しかし、現実的にはこの原子力を平和利用として長年享受してきたわけである。すぐにゼロにすることは全てのシステムに異常をきたすことは目に見えていることである。代替エネルギーの確保ができれば原発廃止で全く問題はない。今、即、原発を廃止したらどうなるかということを想像してみてほしい。数年間は今までの蓄電で保つかも知れないが、その後はどうなるのかということである。私がこのように述べると原子力推進派としてブラックリストに載るかも知れないが、私は決して推進派というわけではない。今の日本の現状を考えると即、原発の廃止を唱えることはできないという立場である。いろんなシステムが絡んでくる問題で、簡単には脱原発は無理な状態である。このことから短絡的な判断は日本を潰すことに成りかねない大きな問題を孕んでいるということである。「たかが電気のために・・・」と発言され脱原発を唱えてみえる著名な音楽家にそのことをしかとお聞きしたいところだ。著名人の意見に惑わされることなく、ご自分の考えでこの問題は判断してほしいということを願わずにはいられない。 




                                         2012.07.21






 日本の政治は現在ほど混乱した時が、かってあっただろうかと思えるような状態である。内政だけでなく国際問題においてもである。日本経済が落ち込んでくるのと同時期に表面化している。これも時代の流れと解釈すればあきらめもつくが、ちょっと寂しい気もする。この状態から早く脱出する方策を何としてでも見つけなくてはいけない。人任せではできるものではないので国民一人ひとりが意識して行動に移す時がきたように思う。情報化社会の到来で世界中の人々の生活環境が飛躍的に変化してきている。そんな中で、日本の持っている技術は今だからこそ生かせる新たな道があるような気がしてならない。ものを造って利益を得る方法は他国にあけ渡してしまった側面もあるが、知的最先端技術はまだまだ日本にはたくさん温存しているはずである。簡単にはまねのできない技術を今後増やしていくことが日本の生きる道のような気がする。資源が乏しいからこそできる知的資産を増やしていくことは日本の国益に適うものである。これは芸術活動についても言えることである。他国には簡単にまねのできない文化が日本にはたくさんある。その文化を高めて他国にはない独自性を発揮していくことが、結果的に国力の浮揚につながるものであると確信している。文化のないところに国は栄えないことを歴史は語っている。今こそ日本文化のさらなる向上に向けて多面的な取り組みが期待されるところである。





                                       2012.08.22






 エネルギー選択の一つである原発の問題が毎日のように紙面をにぎわしている今日此の頃である。世論調査で八十数パーセントの人々が原発反対と書かれているのを見て、これって本当の数かと正直言って疑ってしまう。原発反対でも、即原発廃止と段階的廃止の二通りがあるわけでそれを一緒に論じてしまうことに問題がある。ある新聞社の社説では明らかに脱原発の主張を鮮明にしているが、記事の書き方で世論の結果が動くことを無視してとらえている。都合のよい部分だけを取り上げて記事にしているので真実が曖昧になっている。新聞社の社説にしては偏りすぎている感が拭えない。しかも、今年の夏季の電力需要は原発なしで十分供給量を維持できたと大見えを切っているが、これとてもいい加減な読みとしか思えない。震災地の復興と共に膨らむ電力や来年度以降の電力の備蓄を考えると不足することは明白で、見通しが甘いとしか言えないお粗末な社説である。どこの新聞社であるかは調べれば分かるわけで、ここでは新聞社名は差し控える。
 原発に関する記事の中で、気にとめる記事があったので取り上げておきたい。一般的に言えることとして・・・原発賛成者は男性に多く、成長戦略を好む傾向にある。・・・それに対して「命」を最優先するのが女性の選択 (女性は生理的に命の側につくからだ) とある。確かに的を射った言葉のような気がする。
日本の将来に大きく関わる新聞社が成長戦略をストップするような記事、しかも、それを社説で書くとは次元が低いと言わざるを得ない。




                                       2012.09.02






 ある新聞の「韓国に惨敗 日本の家電各社が怠った知財管理」と題した記事に目が止まった。経済不調の状況が毎日伝えられると自分のことのように深く心を痛める。どうしてこんなことになってしまったのかと苛立つ毎日である。
 この記事に京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥教授の弁 「知的財産に精通した人材が足りない」、日本勢が負けたのは「日本企業は知財マネジメントが十分にできていなかった」とある。この弁は日本の将来に大きなヒントを与える内容のものであると感じた。「知財マネジメントには多くの時間を割くため、専門家の起用がどうしても必要であり、そこで製薬会社の知財部門に在籍していた高須直子さんを京大に招いた」 そして、「自分は iPS細胞の研究に専念したい」とある。この考えは今の日本の現状にピッタリ当てはまる問題提起であるように感じた。日本は最先端の技術をたくさん持っていながらそれを管理できなかったことによる損失点が今の日本経済を象徴しているように思えてならない。
 芸術の世界では作品を模倣されるようになったら一流だという考えがあるが、まさにそれだと思う。他国に真似をされるような技術を日本は持っているということは一流国家である証でもある。栄枯盛衰は世の常である。いつかは必ず追い越される時がくるものだ。追い越されたら次の手を考える機敏な転換技術を培っておくことが求められる。現状に止まっていては駄目だ。それを考えると、今がその時のような気がする。願わくは各業界各位の皆さん、諦めずに希望を持って未来を開発していってほしい。




                                       2012.09.04






 知財管理というと経済面における利潤保全の感が強い言葉である。この中には当然として著作権の意味合いが強く入っているが、経済界と芸術分野における著作権の捉え方に多少の違いがあることに触れてみたいと思う。
 先ず言えることは、顕著な違いとして芸術活動は利潤の追求ではないことである。たとえ模倣されたとしても実質的な損害は発生しない。しかし、芸術家としての矜持の問題に帰趨することとなる。アイデアや構想は著作権の中には含まれず、出来上がった作品においてのみ著作権の範疇が及ぶことである。作品の一部を無断でコピーしたり、トレースしたりすると著作権の問題が発生することになる。芸術活動では真似をされるようになったら一流という価値観が仲間内にあるのであまり拗れることはない。しかし、誰が最初に造ったかの問題になると、前に述べた芸術家のプライドに関わるわけで揉めることがよくある。最近は経済界でいう知財管理に近い著作権の管理をしているところもある。作品を商品のように扱い無断借用を禁止して、印刷物や映像権の全ての権利を掌握し利潤を得ている作家もいる。こうなると純粋な芸術活動から乖離することとなり、芸術家としての評価が下がる結果を招いている作家もいる。どちかがよいかは作家自身の問題で他人がとやかく言えるものではない。個人的には芸術分野はもう少しおおらかでもよいのではないかと思っている。しかしながら、この問題が一旦拗れるとたいへんなことになることだけは認識しておく必要がある。というのは損得感情よりも矜持の問題は心の問題として根が深いからである。




                                       2012.09.07






 ある新聞の社説を読んでこれは「言わねばならない」と思い記することにした。この社説には気骨の記者、桐生悠々を例にして新聞の使命を言いたかったと思われる。当時(明治、大正、昭和)の記者としては反体制的な反骨精神に徹した記事を書き、新聞記者の鑑であったことは間違いないことであろう。しかしながら、当時の権力と今の権力の意味合いが随分と違うことを認識して例える必要がある。民主国家における今の時代では、昔のように人を強制的に支配する力はある筈もなく、体制としての力も必然的に弱くなってきている。今の時代に権力を掌握する体制側の批判をするとしてもかっての桐生悠々記者とは雲泥の差がある。権力に立ち向かって記事を書くことは新聞社の使命として当然のことである。また、強烈な批判記事を書いたとしても今の時代、弾圧されることは先ずあり得ないことである。
 ここで敢えて言いたいのは、その中身の問題のことである。大衆が望んでいることを大儀名分にした記事が果たして、当時の桐生悠々記者の書いた記事と同類かというと、全く違う。当時の民衆は情報不足で内容について無知であったから、彼の記事の価値があったわけである。
 お客を大事にする企業であれは当然のこととして多少、大衆迎合的になるのは当然である。しかし、新聞社の使命としては、それだけでは十分ではない。大衆の望まないことでも真実と思われることは伝える義務がある。また、今はたとえ苦しくとも、長いスパンで捉えた成長戦略に適合しているならば、それを大衆に啓発をしていく使命がある筈である。目先の事象で捉えた記事は単なるポピュリズムの何ものでもない。反消費税や反原発の論評はあまりにも近視眼的内容のものとしか思えない。この論評の大前提「言いたいこと」ではなく「言わねばならないこと」にしては説得力に欠けると言わざるを得ない。







                                       2012.09.09








前出の「言わねばならない」の二段として記する。新聞社の社説というのは主幹記事で、社の方針を示すものであると認識している。社説の「言わねばならないこと」と銘打って、反体制的な記事を書くということはすべての分野においてもその方針でなければいけない筈だ。ところが芸術分野の記事を見ると権威主義に乗っかった記事が多く、あまりにも偏っている。この社が独自に与える賞などはまさにそのことが如実に現れている。また、かっての官展の流れをくむ展覧会などは特別扱いで記事を掲載している。官展系というのは体制側に属する筈である。せっかく反体制的姿勢を示したならば、この分野においても徹底すべきではないのかと疑問を持つ。要するに方針に一貫性がないからである。しかしながら、御用新聞ではないことを宣言したことは大いに評価する。大衆を味方にすることはよいが、新聞の使命を忘れないでほしい。そのためには日本の将来を考えた前向きな提言で、大衆を先導してほしいということである。






                                         2012.09.10







 日本中を見渡すと、今までこんな混乱した夢のない時代はあったかと思うぐらいの暗澹たる状況である。政治は混迷期に突入、経済はガタ落ち、少子化で老人ばかり、失業者増大、いじめの問題等々、マイナス面ばかりがクローズアップされる今日である。自信を無くしているかのように見える日本ではあるが、本当にそうであろうか。私はそうは思っていない。底を見た後に来るものは再生である。日本人には強靭な再生能力を潜めていることは今までの歴史が証明している。今は一からはじめるよい時期と発想を転換して当たっていけば必ず良い方向に行くものであると確信している。今まで培ってきた最新且つ根幹技術をいろいろなところで生かせる筈である。前出で記したように今度は知財管理をしっかりして取り組めば、きっと実現できるものである。この再生能力は精神力に関係することが大である。現実に負けてしまっては発揮することはできない。マイナス思考ではなく、全ての分野においてプラス思考で当たっていくことが、夢の実現になる。< Dreams come true. >
 大衆を啓発していく責務がある新聞社がマイナス思考で論評を書くと長い目で見ると大きな損失になる。目先の安泰記事では日本は再生しないことは明らかである。小さく縮まった日本では未来がない、また夢がない。それを増長するような記事を書く新聞社はポピュリズムの何ものでもない。いつかはきっとその報いを被ることは間違いないことであろう。どんな場合においても多少の危険はつきものである。ここで逃げていては日本のためにはならない。






                                         2012.09.13







 ある新聞社の朝刊・論説主幹記事にもの申す。原発の問題を倫理面で論陣を張っているが、疑問点が残る。その一つ、〔世論調査を見る限りでは国民の多くが原発ゼロをすでに決めていた〕とは推測の域であって断定できるものではない。しっかり国民投票をした結果を待つべき論点である。その二、原発ゼロの先進国としてドイツをあげているが、今のドイツの現状をしっかり調べた上での提言かどうか。隣国のフランスで電力を買っている事実、しかも、フランスの電力は原発のものである事実をどう説明するのか。その隣国に原発事故が発生すれば当然のこととして無傷ではありえない現実をどう説明するのか。日本においても同じことが言えるのではないか。また、環境面において地球温暖化で関係の深いCO2の削減はどう捉えるのか。その三、政治や経済よりも人間の命が大切という論理は当たり前のことである。しかし、人間が生きるためには政治や経済を二の次とする論法は、現在を生きる人間の知恵としては怜悧を欠くものである。その四、原発ゼロ後の技術革新(イノベーション)に期待するとあるが、これもまた当然のことである。しかし、その間を何で、どう賄うというのか。確たる代替エネルギーがない状態で、甘い夢を語るべきではない。現実に目を開いて捉えるべきである。その五、少欲知足のブッダの教えは生きるための知恵としてはすばらしい言葉であるが、グローバル化している現状を考えれば例えとして適切ではない。もう鎖国時代に戻ることなどありえないわけだから。




                                         2012.09.15






 今の日本は政治に目を離せない状況化にある。政権交代をして三年目が過ぎようといている。夢と希望を与えてくれる筈がかえって不安と混乱を招く政権であったことに国民の多くは失望している。現政権の所為とばかりは言えない面もあるが、自信と展望のない政治がこの結果であるということは誰もが疑わない筈である。特に外交面では弱腰外交や口先だけの外交の結果、国益を大きく損ねたことは自明である。簡単には取り戻すことのできない失点でもある。特に領土問題が一気に噴出してきた原因は沖縄基地のいい加減発言によるものが大きい。その結果安保問題全般に矛盾点が発生し、混乱状態が続いている。この弱みを突いたのが隣国の理不尽な領土侵害事件である。この問題は簡単には解決できるものではない。「大人の外交」といって相手国を思いやる外交では最早通じるものではないことは明らかである。日本の強みカードを失った現在、今までのまあまあ主義では相手国を付け上がらせるだけである。目には目を、歯には歯を・・・ぐらいの気持ちで当たらないとと解決できるものではない。日本人のよさを失ってまでやることではないと考える方もいると思うが、それは甘いとしか言い様がない。今の国際情勢を見ればそのことがよく分かる筈である。今までのアメリカの笠はあてにはできない現在、自国は自国で守る体制を早く打ち出していかなければ日本は確実に潰れてしまう。そもそもアメリカに頼る安保では心もとないわけで、いざ武力紛争が発生すれば元も子もない。人頼みなんていい加減なものだという認識を強くもたなければいけない。今の憲法は進駐軍時代にアメリカに都合のよいようにできたもので今の時代に即していない。憲法改正を早くやる必要がある。また、今のように自国の守りを他国に依存している以上、自立はありえない。中国などは日本をアメリカの属国と見ている。人のいい日本人なんて甘い言葉に酔いしれている時ではない。日本の状況はもっとシビアである。








                                         2012.09.17








 尖閣諸島問題が緊迫した情勢になってきた。ここで舵取りを誤ると一大事になることは明らかである。黙って見ているだけでは済まされない。日本国民の一人として、この問題について発言をする。誰が読んでくれるのか分からないけれども、共感者を少しでも増やして国民の声として反映できるように期待したい。
 中国の出方は常軌を逸していることは間違いない。しかし、他国がどう捉えているかはそれぞれの国の思惑がある筈である。中国に寄り添って生きて行かなければ成らない国にとっては、たとえ常軌を逸していると感じても中国側に付くだろう。ここでは国際世論を当てにすることはできない。圧倒的な数による実力行使でごり押しをする中国の手法は汚いと言うしかないが、そのカードがある以上、使うのは当たり前のことであろう。人のよい日本人では決して使えない手法であることは間違いない。ここで暗黙したり、反論しないでいると中国は益々増長してくることは明らかである。ともかく相手は強引に既成化することを先ず第一の戦略としているわけで、その手に乗ってはならない。高圧的な態度で挑発し、日本の出方を待っているものと思われる。カーッとなって武力で対抗すると中国の思う壺にはまってしまう。中国としては尖閣諸島は紛争地帯であると国際社会に訴えたい訳である。今の中国は大国意識過剰で日本の力を何とも思っていない。悪く捉えれば日本を舐めきっている。日本の影にいる米国が真の競争相手と考えている。その米国が尖閣諸島の領土問題にはタッチしないことを宣言しているわけだから、中国としては怖いものなしの挑発で武力闘争になることを望んでいるものと思われる。しかも、日本の自衛隊では数の論理から言っても有利であることを予め読んでいる訳である。無人島の問題で戦争になったとしたら、どちらの国にとってもメリットがある筈がないのに、中国は一か八かの賭けをしている。また、貪欲な中国は島そのものがほしいわけではない。その周辺に存在すると言われている、石油と天然ガスのエネルギー源がほしくてたまらないのである。その存在が分かってから急に自国の領土と主張し出したのはそのためである。すでに日本が実効支配をしているのにも関わらずである。実におかしなことである。中国のエネルギー確保は日本だけではない。東シナ海においても強引な手法を使って略奪を図っている。かってのスターリンの覇権主義のようなことをやっている訳である。世界を相手に勝手な動きをする中国を諫める国がないことがそれに輪をかけている。今まで頼りにしていた世界の警察官・米国は最早その力はない。自国は自国で守るしか方法がないのである。そのためには前出にある日本国憲法改正を早くやる必要がある。待ったなしの状況下にあることを国民は、認識しなければならない。






                                         2012.09.18








 尖閣諸島の混乱は山場を越えたかなと感じる今日この頃である。ニュースとして扱う紙面が小さくなってきている。理不尽な行動をする中国の実態が改めて世界に知れ渡ったことであろう。国際世論を全く無視する中国の行動はこれからも果てしなく続くことと思われる。周辺国家にとっては至って迷惑千万なことである。この状態はまるで子供のいじめ子の問題とそっくりである。大国を自認しているならもう少し大人になれよと言いたくなる。
 国内では原発問題がまたクローズアップされている。大手新聞社の中で「原発ゼロ」に対して反対色を鮮明にしているのが、読売新聞と産経新聞と日経新聞である。それに対して「原発ゼロ」を強く主張しているのが毎日新聞と東京新聞(中日新聞)である。朝日新聞はどっち取らずの態度である。それぞれに言い分があるが、どちらを支持するかは国民一人ひとりの判断にかかっている訳である。短絡的な判断をすると日本の将来に悪影響が生じることは明らかである。今回の政府の閣議決定を見送ったことは理解できる。一旦ゼロにしてしまったら取り戻すことは不可能となる。その判断を現内閣だけで決定してしまうことは後々に憾みを残すことになる。任期があと1ケ月もない内閣が決定するには余りにも荷が重過ぎるわけで、この閣議決定見送りは当然であろう。
 一介の日本画家が政治に興味を持って何の得があるのかと疑問を持たれるものと推測する。そのとおりで何の得もあるわけではない。強いて言えばバランス感覚の訓練に役立っているかなと思われるぐらいである。絵も政治と同じで、いろいろな絡みがあって結論を出すのに四苦八苦する。絵の結論というのは作品づくりのことである。一旦決めてしまうと途中の修正は難しくなる。政治と一緒である。途中の修正がないように、ありとあらゆる手を考えなければ、自信を持って作品を最後まで造り上げることはできない。しかも、同じことの繰り返しは絶対にしないことが条件になる。新しいものを造りだすという覇気がなければ納得のいく作品にはならない。これは作者自身が一番よく分かっていることである。時には不本意な作品が受賞したりすることがあるが、自分の心とは違うものでそんなものはうれしくもない。まあ、しかし、これが現実かも知れない。政治も、最善策を考えて施行したつもりが、全く民衆には支持されない場合と同じである。造る側と鑑賞する側とのズレは政治家と民衆の関係に近い。そこで信念を捨てて迎合すると次元が低くなることは言うまでもない。未来や将来を考えた戦略のないものは絵でも政治でも同じであると考えている。目先の現象に囚われていては未来はない。また、危険を避けていては明るい未来はない。






                                       2012.09.20








 今日のT新聞の朝刊を読んで思うこと。原発ゼロ閣議決定に米国が口を挟んできたためと一面に大きくスクープしていたが、全くナンセンスとしか言えない。T社は原発ゼロを編集主幹にしているからその方向で突き進んでいるようである。言論の自由があるからそれはそれで認めるが、記事の内容が現状維持論ばかりで将来を見据えた長期戦略が全く見えない。大衆迎合をしていると日本の未来はないことに気づいてもいない。任期が後1ヶ月もない内閣が原爆ゼロの閣議決定をしてしまったら誰が一体責任をとるというのか。米国が懸念を表明したのは安全保障の立場から言えば当然なことである。中国、北朝鮮の核の脅威から誰が守ってくれるというのか。日本が米国の傘にいる以上、口を挟んでくるのは当たり前のことではないか。自国で自国の防衛ができればT社の論理は受け入れてもよい部分もあるが、できない以上、多少矜持に傷がつくがそれを認めるしかないのではないか。T社の言う原発ゼロを実現するには先ず憲法改正をしてからでないと机上の空論に陥るばかりである。また、消費税に反対の立場を唱えているが、目先の論理で成長戦略が全く見られない。全体的に偏狭さの目立つ記事で、トータルバランスを欠くものであると言える。






                                    2012.09.22






 中国の情勢に目が離せない毎日である。未だに一党独裁政治で、国が機能していること自体に驚きを感じる。グローバル化の波で消滅している国が多い中、しかも、社会主義国家として存続していることに不思議さを覚える。政治は社会主義で経済は自由主義の矛盾、社会主義でありながら拝金主義の矛盾、言論統制や思想統制をしておきながらインターネットは容認、イデオロギーを宗教化して他宗教の自由は認めない無宗教国家、愛国教育の無作法教育、人口が多いことを逆手にとった数による圧力、自国の開発なしに他国の知的資産の侵害・盗用、等々がある。国際規範に反することばかりで数をあげたら、きりがない。その国家が国連理事国とは全くもって呆れる。自国の利益ばかりを追求して、しかも他国までも覇権を強める中国である。かってはそれを諫めるのが米国であったが、中国と相互依存をしている以上できる筈がなく、それが勝手放題に輪をかけている。近隣国としては全くの迷惑千万なことである。国際世論を期待したいところであるが、世界の現状を見てみると、面と向かって、中国批判をする国がいないことである。やはり相互依存の関係で、へたに批判をするとそのしっぺ返しが怖いのである。成金になった中国は軍事面においても拡張をし続け、今や怖いものなしといったところである。その自信過剰が国際社会に猛威を振るい、理不尽な国際規範潰しを行っているわけである。しかし、こんな状態が長く続く筈がない。すでに経済破綻の兆候が見られるわけで、今までの高飛車のツケが間近に迫っている。その時になってどんな態度をとるか見ものである。






                                    2012.09.26






 自民党の総裁選について思うこと。かっての自民党ではあまり見られなかった立候補者の乱立は、取りも直さず組織の弱体化を示すものである。候補者を絞り込めなかったことはリーダーの不在を表したものとも言える。反面、派閥の力学が崩れ、誰でも立候補できる新たな素地が生まれたよい結果でもある。選ばれてしかたなくやるよりも、自ら率先して行動に移す政治家の方が、活力を生むことは確かである。失敗は許されない世界であるだけに、経験と逞しさが必要となる。
 さて、今回の総裁選は、三年前の劇的な政権交代を経て、誕生した民主党の失望感を反映した選挙でもあり、国民の関心が高いものであった。第一次選では立候補五名のうち、誰一人として過半数をとることができず、その結果、石破氏と安部氏による決選投票が行われ、最終的に安部氏に決定をした。結果を見ると、党員の支持と国会議員の支持の差に大きなズレがあることにびっくりした。この二人の票数は、支持結果がまるで逆の現象が見られる。安部氏は国会議員には支持者が多いが、党員には少ない。片や石破氏においては党員には支持者が多いが、国会議員には支持者が少ない。この結果をどう見たらよいのであろうか。捉え方はそれぞれの考えがあることであり、それを厳粛に受け止め、今後の対応に生かしていけばよいことである。政治というのは一人でやることはできないもので、いつも大衆を意識しつつ、尚且つ、専門家にも支持を受けるものでなければ勤まらない、大変厄介な職業であることを再認識した。
 政治と芸術活動の違い点について触れてみたい。政治は職業として存在するが芸術は職業としては存在しない。(広義)
大衆の意味合いが違う。政治で言う大衆は全ての国民をさして言うが、芸術では鑑賞者に対して言うことが多い。大衆受けがよいという言葉があるが、政治にはよい意味で素直に捉えていることが多いが、芸術では浅薄の意味で捉えることが多い。政治は国民の奉仕の意味合いが高く、外に向けて価値感を見つけるものである。芸術は個人の追及であり、内に向けて価値感を見つけるものである。政治と芸術では価値観の方向性に違いがあるが、人間の心に深く関わる点においては同じであると言える。政治は多少、大衆に迎合しなければ成り立たたないものである。しかし、大衆に寄りかかり過ぎるとポピュリズムに走り、真実を見失う危険があることも忘れてはならない。芸術では未来に向けた挑戦や戦略が大切であり、実存の大衆受けをねらうことは次元の低いものであるという認識がある。政治家は専門家に支持されるよりも、大衆に支持されることに高い価値を求めることが多い。それに対して、芸術家は一般の鑑賞者に支持されるよりも、専門家に支持される方を好む傾向がある。また、言葉を変えれば政治は相手の存在を意識しないと、意味をなさないが、芸術は相手の存在を意識しないでもできるということが言えるわけである。(評価を後世にゆだねることに高い価値観を見出す概念が存在する)
政治は:権威主義、権力主義、体制主義を好む傾向があるが、芸術はそれらを極端に嫌う傾向がある etc, 政治と芸術について思いつくままに記したが、あくまでも傾向を列挙したものである。






                                    2012.09.28






 昨日は強い台風17号が日本を縦断し、台風情報で明け暮れた一日であった。近隣国家の嫌な情報も目に触れることなく、我が身の事象に関心を払うだけの一日、何か昔に返ったような気分になった。
今の世の中は情報社会でいろいろな情報が否応なしに目に入り込んでくる。これが良いことか、悪いことかは個人の判断によるもので、とやかく言えるものではないが・・・。この情報を各自が自分の責任でコントロールして、いかに有効に利用するかが求められている時代でもある。昔人間と言われる世代の人々は、新聞やテレビのようなマスメディアの情報だけに頼っているので、刻々と変化をする情報に疎い実態がある。それに対して情報器機を利用している世代は、いろいろな情報があり過ぎて、かえって判断に迷いが生じる難しい時代でもある。国の舵取りをする政治家は、そのことを一般人である我々よりも、もっと注目している筈である。
 ところで、日本は民主国家の先進国であるかどうか。その判断は、次のことで判断できる。①自由に発言ができるかどうか。②弾圧されることはないか。③体制批判ができるかどうか。④独裁政治になっていないか。⑤少数派の意見を尊重しているか。⑥数による圧力があるか。⑦権力主義や体制主義に陥っていないか。⑧価値観に多様性があるか。⑨差別のない国家であるか。⑩社会格差があるか・・・etc. で判断できる。日本の場合は完全ではないが、ほとんどの項でOをつけることができる。勝手な判断かも知れないが、日本は先進国であると言える。近隣国家を見ると、中国や韓国では思想統制が今だに行われており、自由な発言ができない国家である。と言うことは、必ずや国民の不満が爆発するわけである。その不満をナショナリズムで上手いこと調整しているのが両国の政治的戦略なのである。日本としてはそのことを頭に入れて、毅然と対応するしかないわけである。








                                    2012.10.01







 中国の現状を見て思うこと。尖閣諸島で見せた中国の異常さにびっくりするとともに、国のあり方を否応なしに考えさせられる結果となった。ロシアで開かれた国際会議において、日本と中国の非公式首脳会談が契機になったと言われているが、真意は謎である。その立ち話会談、直後の中国の動きについてである。この時を待っていたかのような超迅速な反撃行為はまさに異様であった。東京都の購入問題や最終的に国が購入したことについての情報は、既に知っていたと思われるのにもかかわらずである。これはどう見ても常軌を逸した行動である。国際法にのっとって抗議するなら分かるが、それをやらずしていきなりの対抗阻止による実力行使である。前もって準備をしていたと思われる官製デモを巧みに操り、常軌を逸した破壊行為の数々のデモ連鎖は、とても偶然に発生したとは思えない。用意周到に準備した結果であろう。指導者一人、鶴の一声で、何の疑いもなく行動に移す民衆がいること自体、不思議なことである。また、既に中国各地に扇動者を養成しておき、何かあったらすぐに行動に移せるように体制づくりをしていたのではないかとしか、思えないのである。独裁政治による思想の統制や体制批判禁止などで、価値観の多様性を奪われた国家は、何と言っても不自然である。人間らしく生きることができない社会は、21世紀の産物としては相応しくない。このような社会では文化も育たないであろう。芸術活動は既成概念を打破することであり、権力主義や共産主義のような統制された社会では絶対に育たないものである。『 ひと の ふり見(み)て我(わ)がふり直(なお)せ 』 反面教師の出来事であった。( 理不尽な中国の戦略は、まだまだ続くものと思われる )








                                    2012.10.03








 中国の現状を見て思うことの二段。反日のデモはあらかじめ仕組まれた中国共産党の戦略という見方は前出のとおりである。領土問題は当事国にとっては最大の懸案事項であることは間違いないであろう。1970年代に尖閣諸島に巨大な油田地帯があることが判明してからのこと、突如として領土権を主張し出した中国と台湾である。日本が既に実行支配しているにも関わらず、一方的に棚上げ論理を主張しているわけである。日本は中国の言う棚上げ論を認めていたわけではなく、反論しなかっただけのことである。勝手に棚上げ論があることを既成化してしまったのである。これは日本の当時の政権党の失策で、これが今日まで尾を引いているわけである。はっきりとものが言えない日本人の特性がこの失点を招いたことは事実である。今更前に戻ることは不可能であることから、現政権はそのことをしっかり再認識をして、対中国に是正していく努力が必要となる。
 さて、今回の尖閣問題に端を発して起きた中国の暴動騒ぎは、いろいろな見方があり、興味をそそられる。ある論調には次のようなものがある。『 中国の強硬な反日姿勢は、バブルの崩壊が予想されるこのタイミングで起きており、< 中国経済の減速がコントロールできないことへの批判をかわす狙いがあるのでは・・・> と疑心暗鬼は広がっている 』、また、『 この状態を打破するには戦争をやるしかない・・・そのために中国共産党は日本を挑発して戦争に持ち込こもうとしている 』、また、『 今の中国の共産体制は、共産党書記長のみでは、シナでの権力のすべてが握れないことから強行的になっている。・・・・』 等々興味深いものがある。確かに現中国の経済は減速していることは、事実ではあると思うが、日本が経験したバブルの崩壊とは違うのではないかという気がする。1990年代に中国経済のバブル崩壊が叫ばれたが、その心配もなく現在まで続いているのを見ると徒労のような気がするわけである。中国は資本主義体制ではないので、いろいろなしがらみを断ち切ってでも、存続できる得策があるのかも知れない。あの暴動デモをきっかけに中国から撤退する動きが一部あるようだが、簡単には撤退できないようにあらかじめ法律を作っているようで、一筋縄ではいかない問題が立ちはだかっている。これらの対応については出資企業の自己責任において、英知を出し合って、解決してほしいと願うばかりである。









                                    2012.10.04









 今の日本は右翼化の傾向にあるというような記事に多く接する。国内のマスメディアが唱えるというよりも他国のメディアが盛んに論調している。日本は憲法で軍隊を持たないことや平和主義に徹した内容で今までの60数年間を過ごしてきたわけである。第2次大戦の反省が平和憲法の草案になっているわけであるが、刻々と国際情勢が変わる現在では、適用できない問題が次々と噴出してきている。やはり、時代の波に対応できない憲法では無用の長物になりかねない危惧がある。そろそろ見直す時期にきているのではないかという思いがある。この平和憲法を創案した当初と時代背景が大きく変化をしてきている実態を考えれば、否応なしにこの問題に直面しなければいけないと思う理由でもある。今まで、どちらかと言うと避けてきたような雰囲気が見られる。護憲派も改憲派もいる現在、改めて国民に問い掛けをして、善処すべき大きな問題のような気がする。自分達は平和主義を唱えていても、隣国から武力で攻められたらどうするのかという現実問題がある。現に尖閣問題は一触触発の状況下である。のんびり構えていたらやられてしまうわけである。今の中国を見ていると日本に戦争を誘発しているようなそぶりがいろんな所で見られる。武力で脅威を与えている中国に対応する方法が、現在の憲法ではないのである。米国が守ってくれると思うのは幻想に過ぎない。自国は自国で守るというのが主権国家の原則である。此の事からして、その根幹部分が脱落しているのがこの憲法である。敗戦直後、米国の占領下時代にできた憲法は、日本が自立できないように、しかも米国に都合のよいようにできた憲法であることは承知の通りである。それが未だに通用し、現在の日本行政の足を引っ張っているのである。もうそろそろ普通の国家にならなければ、生きていけない情勢が目の前に迫っているのである。中国の他にロシア、北朝鮮や見掛けだけの同盟国である韓国においても日本の足元を見透かされている現状を知れば、放っておけない深刻な問題であることが分かる筈である。これは右翼化の傾向というものでは断じてない。自立国家としてやるべき当然な姿なのである。








                                    2012.10.08








 2012.10.08 pm.06:30 すばらしいニュースが舞い込んできた。『 日本人として25年ぶりとなるノーベル医学生理学賞を京都大iPS細胞研究所の山中伸弥・同大教授(50)が受賞することが決まり、日本の科学技術力の高さが改めて証明された。 ( 毎日新聞より一部抜粋) 』・・・・前々から下馬評に上がっていた山中伸弥氏のiPS細胞の研究が本当に受賞することとなった。日本中が歓喜の声でいっぱいである。東日本大震災や近隣国の外交問題、日本経済不振 等々、暗いニュースばかりが続いていただけにこの朗報は日本に夢と希望を与えてくれた。文句なしの快挙である。








                                    2012.10.08







 ノーベル文学賞候補に上がっていた村上春樹氏は、残念な結果となってしまった。中国の莫言氏が幸運を勝ち取ったわけである。今回の受賞は文学的にどちらが優秀であったかよりも、何か政治色の強いものを感じる結果となった。この賞に限らず、どの場合でも言えることではあるが、今回の場合は授与する側と授与される側の国どうしの情実が強く感じられるものであったということだ。前々回のノーベル平和賞で両国の関係が、ギクシャクしたことへの改善策のような配慮が見え見えなのである。案の定、中国政府は今回の受賞を前と打って変わって、プロパガンダに利用している。個人的にはどんな賞においても、そのあり方に疑問を感じてしまうが、このノーベル賞とオリンピックの賞だけは文句なしに認めてしまうところがある。ナショナリズムの高揚を感じてしまうのかも知れない。自分のことのように素直に喜べるのである。iPS細胞研究の山中伸弥氏の受賞は日本国を代表して貰ったような大胆な気持ちになってしまうのは私だけであろうか。










                                    2012.10.13





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