画家の眼 ⑥
長年続いた円高による経済不振から脱出し、好転の兆しが見えてきた今日この頃である。しかし、一般庶民の生活にはその効果がまだまだ実感できていない状況である。明るい見通しが立っただけでも喜ぶべきことなのかも知れない。まだ楽観を許さない状況下にあるので、今後の成り行きを注意深く見守っていきたい。経済の方は上向き傾向を示しているが、外交面ではいろいろと問題が続出し、難行している。戦後70年近くを迎える今日、いまだに理不尽な要求をしてくる近隣国家には、ほとほと閉口する。戦後レジームからの脱却を主張している安部首相には、今後弱気にならずに初志貫徹をしてもらいたいものである。
2013.04.28
安部政権のウオーミング期間も過ぎ、本格的な運営へとシフトした今日この頃である。スタートが快調であっただけに、この調子を持続することの難しさに頭を悩ましていることと思われる。二度目の登壇で自信をつけた安部首相の言動には確かなものを感じ取る。前回の教訓を生かしながら、突き進んでほしい。また、近隣国家の悪評を気にしないで、日本の国益に沿った一貫性のある政治に期待したいものである。
最近の「 主権回復・・・・記念式典」での沖縄の方々の受け止め方に千差万別あることを知って驚愕した。同じ日本人なら当然と思っていたことが、実はそうではなかったことである。沖縄の方々の約 80パーセントは、日本への復帰を喜んでいた。(琉球新報が2012年5月実施の世論調査)・・・・後の20パーセントの方々は復帰を望んでいなかった。その事実こそが問題なのである。悲惨な体験をしている沖縄人にとっては、その思いが複雑なのである。沖縄にとっては占領体制が解けていない。独立しても主権が回復していない現実があるのである。主権を回復するには「 琉球独立 」 しかないと考えている方々が、日本からの独立を主張していることである。そこが大きな問題である。今や少数派とは言えない動向があることを、ある新聞社が指摘している。尖閣諸島の問題が勃発している時だけに、国民の一人として看過できない情勢なのである。
2013.05.01
今の日本を動かしているのは戦後世代であると言っても過言ではないだろう。第二次大戦終了前に生まれたとしても、実際に戦争に参加した世代ではないことは明らかである。この大戦終了間近に生まれた私も、丁度この世代に入る。戦争を肌で感じていないのである。周りから戦争の悲惨さはよく聞いているが、実際の目で見ていないのでシビアーではないのである。しかし、知識的には戦前、戦中、戦後の歴史の流れは、大変興味があり、自分なりに体系的に捉えているつもりである。戦後70年近くを迎えながら、今だに過去の負の遺産から逃れることができない現状に、日本人の一人として苛立ちを強く感じるのである。敗戦国になったが為に全てを否定され、無理難題を要求してくる近隣国家にはほとほと閉口するのである。当時の世界・世相は多かれ少なかれ、このような情勢であったわけで、全ての弊害を日本にだけ押し付けるのは酷というものである。喧嘩両成敗と言う言葉があるように、両方にその責めがあるはずである。それを一方的に侵略戦争として、敗戦した側 ( 日本 ) に責任を押し付けているのはおかしいのである。また、その責めは、既にいろいろな面で償ってきている。いつまでも理不尽な要求するのは道理にあわない。前出のように、今の日本は戦争を知らない世代である。いつまでも過去の負の遺産カードを突きつけられても、時効に等しいのである。
2013.05.02
憲法記念日を境に巷では、日本国憲法の改憲議論が盛んになっている。憲法を改正するには、この第96条の規定条文を見直さないとできないことからこうなるのであろう。国民の一人として高い関心を寄せている。戦後のどさくさまぎれにできたこの憲法は、 70年近くが経過した。果たして現代に合致したものであったかどうかは、大いに疑問を呈すところである。しかも、米軍の進駐時代に定められた憲法は、日本にとって本当に自主憲法と言って憚るものであったかどうかも、疑問の多いところである。注目すべきことは、自国の防衛を他国(米国)に全てを負んぶしていることである。こんな人任せの国家では独立国家とは言えるであろうか。まさしく属国と言われてもしかたがないのである。大戦の反省から永久に武力闘争を放棄するのはよいとしても、自国の防衛は自国でするのが本筋である。外部から武力で攻められれば、当然として武力で守るのが普通の国家である。自ら武力を使わないことが前提ではあるが、攻められれば自主防衛をするのは当たり前のことではないだろうか。その当たり前のことができないのが、現憲法なのである。そんな不合理なことでよいのであろうか。冷静に考えれば誰でもおかしいと思うはずである。今の日本人の多くは、平和ボケをしているとよく言われる。私自身もそれを強く感じているのである。深刻な事件が勃発しない限り、この憲法改正論議は浸透しないであろうと、残念ながら悔しく思っている。本当は事が起きてからでは手遅れなんだが・・・・・国民一人ひとりが憲法に関心を持ち、身近な問題として談義できるような環境づくりが、是非必要なのである。
2013.05.07
昔々3人の兄弟がいました。親は東の遠く離れた所へ出稼ぎに行っていました。その間は3人だけで生活をしていました。一番上の兄さんは、年が多いだけにいろいろなことをよく知っていて、弟たちの見本となっていました。図体の大きい2番目の弟は、活発な子どもで近所のガキ大将的な存在でした。いつも問題を起こしては兄に迷惑をかけていました。3番目の弟は体が小さくて、見るからに気弱な子どもでした。いつも近所の子どもたちにいじめられていました。上の兄さんの面倒見のよさで、二人の弟たちは、その問題を抱えながらも、すくすくと成長していきました。ところがある日、ちょっとしたことで兄弟喧嘩がはじまりました。「 僕のものを取っただろう 」 とか、「 黙って僕のものを使っただろう 」 とかのささいなことから大喧嘩になりました。一番上の兄さんは、弟たちに 「 お金のことや問題を起こした時の後始末をしたのは、この僕だぞ。少しぐらいは恩を感じなさい 」、一方の二人の弟たちは 「 僕たちが小さいと思って、勝手なことをやっていたではないか。兄さんに感謝することなど、ちょっともない 」 などと罵り合うばかりで、兄弟喧嘩が益々ひどくなりました。こんな状態を親は、全く知りませんでした。ところが我慢ならなくなった一番下の弟が、親に会いに行ってそのことを話しました。親はびっくりした様子で家に帰ってきました。親は 「 兄弟は仲良くしないといけないよ 」 、 「上の兄ちゃんの言うことももっともだよ 」 、 「 下の弟たちの言うことももっともだよ 」 、 「 そこは兄ちゃんなんだから、小さい弟たちの言うことを聞いてやりなさい 」 と親心で言うのでした。また、親がわりで下の弟たちを見てくれた兄には、そっと感謝の言葉をかけているのでした。
2013.05.09
その後、三人の兄弟は、親の言いつけを守って静かに暮らしていました。見かけは仲のよい兄弟に見えましたが、それは見かけだけでした。一番上の兄と下の二人の弟の確執は続いていました。しかし、いつも喧嘩をしていたというわけではありません。時には仲のよい兄弟愛も見せていました。上の兄は人柄がよく、しかも、勉強も素晴らしくできたので、まわりから羨ましがられていました。下の二人の弟たちは、そんな兄を内心嬉しく思っていました。何でもできる上の兄に、いろいろな所で助けてもらいました。そうしているうちに、下の二人の弟たちも少しずつ力をつけていくようになりました。まわりからも 「 兄さんと同じくらい立派になったね 」 と言われるようになりました。上の兄は、そんな近所の評判を全然知りませんでした。いつものように弟たちに親切心で、いろいろと口を出していました。しかし、力をつけた二人の弟たちにとっては、上の兄の助言が口うるさく感じるようになりました。ある時、二人の弟たちは、上の兄に向かって 「 兄さん、うるさいんだよ。僕たちはもう小さい子どもではないんだ 」 、「 兄貴面はやめてくれよ。うざいんだよ 」 と罵り合い、またもや大喧嘩となってしまいました。遠くで働いていた親の耳にも、このことが知れ渡りました。びっくりした親は家へ飛んで帰りました。三人の子どもを前に 「 兄弟は仲よくしなきゃーいけないよ 」 、「 近所の笑いものになるからね 」 と言って、言い聞かせるのでした。
2013.05.11
しばらくの間は親の言いつけを守って暮らしていました。ところが、ある時ちょっとしたことで、また喧嘩が始まりました。事の起こりは部屋の片付けのことでした。上の兄は几帳面な性格でいつも部屋をきれいにしていました。ところが二番目の弟は、そんなことには無頓着で自分の部屋はもちろんのこと、家中を散らかし放題で、暮らしていました。三番目の弟はどちらかと言うと神経質なところがあり、上の兄と同じような気質をもったところがありました。ただ、人に指図をされることを極端に嫌う面がありました。ある時、上の兄が堪忍袋の緒を切らし、二番目の弟に強い口調で注意をしました。いつもはのほほんとしている二番目の弟が、虫の居所が悪かったのか、ものすごい勢いで兄に反抗しました。「 僕の部屋なんだから、どう使おうと勝手だろうが・・・」 、「 いらんお節介をするな 」 と言いました。兄は一瞬、恐れおののいた様子でしたが、 「 自分の部屋はいいとしても、周りの部屋まで散らしぱなしにするな 」 、「 兄である僕の言うことが聞けないなら、もう兄弟ではない。家を出ていけ 」 といつもにない大きな声で怒るのでした。それを見ていた三番目の弟は、兄の罵声にびっくりした様子で小さくなっていました。いつもはすぐに終わる兄弟喧嘩が、その時に限ってなかなか納まりそうもありませんでした。三番目の弟も、今まで上の兄の口うるさいことに悉く嫌気を感じていました。そのことがあってかどうか分かりませんが、つい 「 上の兄さんはこのごろ威張りすぎだよ。僕らも大きくなったんだから、もう一々口出しをしないでよ 」 と二番目の弟の味方になるようなことを言ってしまいました。二番目と三番目の弟は、いつもは仲がよいという感じではありませんでした。しかし、このことがあってから、二人の弟たちは力を合わせて、強い一番上の兄貴に反抗するようになりました。さすがに上の兄は、それ以来というもの、二人の弟に口出しするのを差し控えるようになりました。
2013.05.13
三人の兄弟は、その後、お互いに干渉せずに勝手気ままに生活をしていました。ある時、三番目の弟の学業成績に問題が起こりました。その弟は勉強に関心が高く、一生懸命に励んでいました。ところがある教科で落第点を取ってしまいました。一生懸命に勉強しているようでしたが、取り組みにむらがありました。それがこのような結果を招いたようです。何度トライしても及第点がとれませんでした。その教科というのは数学でした。数学嫌いが災いしたみたいです。頭のよい一番上の兄に教えを請いたいと思っていましたが、前の件があり、どうすることもできませんでした。そこで、一つ上の二番目の弟に教えを請いました。二番目の弟は図体が大きいだけに、運動に関しては抜群の能力を持っていました。しかし、それ以外の教科については、ほどほどの成績でした。とても下の弟に教える力はありませんでした。困った時には下の二番目と三番目は手を結んで助け合うはずでしたが、この時だけはどうしょうもありません。一番上の兄は薄々そのことに気づいていました。しかし、差し出がましいことは控えるように誓っていましたので、そっとしておきました。ところが我慢できなくなった下の二人の弟たちは、親のところへ行きました。そこで、「 一番上の兄さんは、僕たちのことをちっとも見てくれないよ 」 「 頼んでも教えてくれない 」 と言って大げさに告げ口をするのでした。それを聞いた親はびっくりした様子で、飛んで家に帰りました。そこで、一番上の兄に 「 あなたは一番上の兄さんなんだから下の弟たちの面倒をしっかり見なさい 」 と注意をするのでした。それを聞いた一番上の兄は、思い余って 「 二人の弟から、もう一々口出しをしないで、と言うからそうしたまでのことだよ 」 と親に返答するのでした。それを聞いた親は三人を呼んでそのことを確かめました。「 お互いの言い分はあるけれど、兄弟なんだから仲良く、協力をしないといけないよ 」 と親心で言うのでした。
2013.05.15
三人の暮らしぶりを見ていた近所の人たちの目には、次のように写っているのでした。 「 上の兄さんはよくやるねえー 」 、 「 だけど、下の二人の弟たちのできがよくないなあ 」 と口々に言うのでした。近所づきあいのよい兄は、いつも明るい挨拶を交わしていたので好評でした。下の二人の弟たちは、どうかと言うと・・・・まともに挨拶もできない少年たちとして見られていました。そして、近所の人たちにとっては仲の悪い兄弟たちだと思われているのでした。上の兄が甲斐甲斐しく、下の弟たちの面倒を見ていたのを覚えていました。だから余計にそう思ったのでしょう。最近の様子を見ていて 「 あれじゃー、お兄さんがかわいそうだ 」 、「 反抗ばかりして・・・・ 」 と噂をしていました。その噂を聞いた二人の弟たちは、「 兄さんは、自分だけいい子になっている。そして、僕たちを悪者にしている 」 と言って、一番上の兄に当るのでした。益々険悪な状態になりました。その噂が親の耳にも入りました。親は電話で 「 また、あなたたちは兄弟喧嘩をしているみたいね。私たちの耳にも入っているのよ 」 、「 親としては恥ずかしいかぎりだ 」 と言って、一番上の兄に注意をするのでした。それを聞いた兄は、「 そんなこと言ったって、僕一人の責任ではないよ 」 、「 お父さんやお母さんがしっかりしていないから、こうなるんだよ 」 といつになく怒った様子で答えるのでした。それを聞いていた親は、「 ・・・・??? 」 と言葉も出ませんでした。
2013.05.17
一番信頼していた一番上の兄の言葉は、親にとって大変なショックでした。このままほって置くと家庭崩壊になってしまうと深刻に考えるようになりました。親は自分達が家を空けていたことがこの結果になったと思うようになりました。仕事第一人間から、転換することにしました。そこで三人の子どものいる実家に戻ることになりました。家に帰った親は、子ども達の様子をつぶさに観察することにしました。常日頃はこれと言って異常さを感じませんでした。ところが、学校での成績表が発表される頃になって三人の子どもの様子が一変しました。一番上の兄の成績は、いつものようにオールAで学年のトップ。そして二番目の弟は、体育がAであとの教科はほとんどがC、総合中位の成績。そして三番目の弟はオールCで総合下位の成績でした。三人の兄弟はその成績が発表される前後から、兄弟仲がギクシャクしているのを、誰の目からも感じ取れるのでした。親は当然として、その変化に気づきました。親は今まで成績について、差別発言はしたつもりはないと高をくくっていました。しかし、子ども達には暗黙のプレッシャーが係っていたことに気づくようになりました。そのことがあって、親は子ども達に 「 人はそれぞれに、天から与えられた使命があるんだよ 」 、「 学校の成績だけでは分からない、すばらしい能力を誰もが潜めているものだよ 」 、「 成績はいいのに越したことはないけれど、それで人生の全てが決まるわけではないよ 」 と懇々と親心で話すのでした。それ以来、家では学校の成績について、くどくどと話すことはなくなりました。親は、家族全員が一緒になれる場づくりに心がけました。そしてお互いに話し合う場も多くセッティングしました。その甲斐があって、今では他から羨ましがられるような明るい家庭になりました。・・・・・・完結
2013.05.20
東京都美術館で5月21日から30日までの開催 第60回記念 日府展のオープニングへ10数年ぶりに出かけた。この記念展を機会に一般社団法人 日本画府へ復帰することになった。今まで活動していた創日会はこの日本画府が前身である。その本家へ20年ぶりに戻ったことになる。記念祝賀会で大きな感動を受けた。初心に返ったような、新たな気持ちが蘇ってきた。あと残された十年くらいの作家活動を、この日府展に賭けてみようと決意しているところである。
この記念展で受賞した作品は、 第60回記念 日府展出品作品 で参照のこと。
2013.05.22
2013第60回記念 日府展 授賞式・祝賀会や展示会場の様子を Photo Cinema 風にアレンジしたものである。
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2013.05.23
東京の上野都美術館で開かれた第60回記念 日府展も無事終了し、ホットしているところである。今年は私にとっても、これを機会に心機一転をした年となった。今までのしがらみを断ち切って一からのスタートである。同じところに止まっていては進歩がないというのが私の持論である。成長戦略を描いた結果、この一大決心となったわけである。そんな年でよくやるねと言った声も聞くが、私にとっては、絵のためなら火の中でもといった心境である。あと残された作家活動を悔いなく過ごしたいからである。一種の冒険である。
2013.06.03
第60回記念 日府展には 2点を出品し、その内 1点に奨励賞がついた。賞をつけてもらって文句を言っては失礼とは思うが、私の意向と違うので、ここに感想を記しておきたい。能を主題にして 25年余りが経つ。いろいろな新しい表現にトライをして、今日に至っている。今回の出品作 「舞 1」は、長年取り組んできた主題を、自分なりに深く追求できた作品として捉えている。一方の「舞 2」は力を抜いた一見、小奇麗に描けた軽い、作品なのである。2点とも自作ではあるが、思い入れが随分と違うのである。芸術性の追求からすれば「舞 1」の方が明らかに高いのである。作者自身が語っているわけだから事実である。しかしながら、そんな作者の気持ちにお構いなしに、第3者(審査員)が客観的に選出するわけで、見栄えのするものを選ぶのも当然ではある。やるせない気持ちもあるが、自身、長年所属公募展の審査に関わっているので、こうした乖離があることは重々承知をしている。これはしかたがないこととして捉えている。自分の造ったものでも、自分の思いと違う評価がつけられることを是認しなれけばならないのが、世の常なのである。名画と言われる作品もきっとこんなものかも知れない。
2013.06.06
日本もやっと明るい兆しが見えてきたと思ったその矢先に、株価の大暴落が起きた。円高傾向から円安に是正され、輸出関連企業も、かっての勢いを取り戻したかのようであった。それが何故、こんなことになってしまったのであろうか。実態のないアベノミクスはいつかは崩壊すると言っていた専門家の意見が正しかったのであろうか。それとも、まだまだアベノミクスは始まったばかりで、定着までには時間がかかるのだから案じたことはない、という意見までそれぞれある。一筋縄では行かないのが、この市場経済であろう。専門家が声高らかに方向性を述べたとしても、その通りにいかない不確実性を常に孕んでいるものである。今の国際情勢は経済力の高い国家が世界を取り仕切る構図が歴然とある。それだけに国を賭けての取り組みが常態化しているのである。政治と経済は別ものという考えもあるが、国力を考えた場合は、政経不可分と捉えた方が妥当であろう。しかし、一部の国家では政治体制は共産主義で経済体制は資本主義という大きな矛盾を抱えたままで存続をしている。他国のことになるので言葉を多少控えるが、これらの国と心を開いて価値観を共有することなどは、土台無理なことである。互恵関係とは言いながらも詳細では相容れないものが存在するのである。もともと価値観が全く違う国と、いくら話し合っても平行線をたどるのは自明の理である。そのよい例が尖閣諸島の問題である。言葉は悪いが「 他人のものは自分のもの 」・・・これがcommunism.の本質なのである。・・・・先日、米中首脳会談が開かれたが、日本にとっては期待薄の感が拭いきれないと思ったのは、果たして私だけであろうか。
2013.06.15
英国の北アイルランドで行われた日米独など主要8か国首脳会議(G8サミット)を見て思ったこと・・・・
G8の場に馴染めない感じのロシア代表の姿が目に残った。やはりと言うか、元共産主義の国がこの自由・資本主義の代表国に参加をするのには時期尚早の感じであった。体制づくりの途上にあるロシアは、価値観を他の7ケ国と共有することには所詮、無理なことであろうと推測したのである。シリアの件では猛反対をするロシアの代表の姿は逞しくも感じた。米国中心のこのG8サミットで、かえって存在感を見せつけたように思えてならなかった。ともすると、大勢の意見に呑まれてしまうのが常であるが、会談内容は別として、国の代表者としての威厳さを見せつけてくれたような気がしたのである。また、この会議では日本経済が脚光を浴びたことも特記したい。ドイツは批判の目を向けていたが、イタリアなどは好意的に捉えていたと報道していた。この件はそれぞれの国の思惑に差し障りがないとの判断から、批判もなく了承されたような感じであった。日本の近隣国家は弊害を強く唱えていたが、この声が届いていなかったことが幸いしているかのようであった。このG8サミット参加はアジア圏では日本だけである。この会議を妬ましく思っている近隣国家は、日本のことを脱亜思想と言って貶すのも当然なのかも知れない。ニュース等の報道に限りがあり、詳細まで分からないことが、かえって勝手に想像を膨らませることにもなっている。記念撮影に日本が左隅、2番目にあることに違和感をもったことも記しておきたい。(序列は慣例に沿っているとのことだが、腑に落ちない。日本は国際的貢献を他国に比べても特出している筈である・・・認識不足か、それとも、アピール不足か ??・・・・・ ) それにも増して、目を引いたのは、欧米人の中にあって、安倍首相の体格のよさと、積極的に英語をこなしていた姿は、従来の日本人にある欠点を払拭してくれたかのような逞しささえ覚えたのである。
2013.06.20
株価の乱高下や為替の異常な変動等の経済的不安をもたらせているが、政治的には概ね良好の状態を保っているような昨今である。ただ外交的に近隣国家の反日活動が一段と激しさを増しており、今後不安材料として残る。劇的な政権交代から数ヶ月経つが、これと言った失敗もなく国民から高い支持を受けている。前回の失敗経験が生かされた強い政権運営になっていることを感じるのである。具体的に列挙すると次のとおりである。第一の点は、一枚岩の団結になっていること、第二に首相を支える力が強固になっていること、第三に閣僚の失言がないこと、第四に発信元が乱立していないこと、第五に独善的でなく、民主的に進めていること、第六に国民の声をよく聞き、それを反映していること、第七に決断のよいこと、第八に言葉に誠意を感じること、第九に英語力のあること、第十に威厳さのあること・・・・・・・・など等
俺が・・・俺が・・・といった顕示欲が特に強いのが、この政治の世界である。首相を支えきれなくなると、次のポストを狙った人材が次々と出没するのである。(支えきる前にポストを狙う一部の者が動き回ることが最大の弱点・・・泰山鳴動して鼠一匹) それが結局、党の弱体化につながり、劇的な政権交代を促すことになるのである。同じ失敗を繰り返している現、政党政治はそのことを特に肝に銘じてほしいのである。
2013.06.24
7月の参議委員選挙に向けて各党の攻防戦が激化している今日この頃である。自公の圧倒的な高い支持率が、かえって不気味でもある。前政権による失われた三年間の思いが、国民には強いトラウマになっている感じすらするのである。それだけに現政権に期待するものが大きいのである。また、その期待には、是非とも応えてもらわなくてはならない。国民はよき時代の面影を忘れてはいない。三十数年前の高度成長期の活気のある日本をもう一度取り戻してほしいのである。今の日本は成長しきってしまったような、燃え尽きてしまったような沈滞ムードが漂っているのである。高度成長期の再来はありえないとしても、その当時の自信に漲った活力は、国民が一丸となって取り組めば、復活は夢ではないのである。日本の底力を見せる時が、流行り言葉で言うところの 「今でしょ ! 」 なのである。活力のある国家になれば、近隣国家に諂うこともなく堂々と勝負できるのである。また、そうなれば自然と周りがそのように対応して来るはずである。今までのような惨めな外交はもう終わりにしてほしいのである。近隣国家の日本に対する外交は、国際社会でも異常性の指摘を謳ったものが多いのである。日本にとっては大変心強いものがある。思いやり外交はもはや通じないのが現状である。まあまあ主義ではなく、毅然とした態度の表明が、今後の日本外交には特に必要なのではないかと思うこの頃である。
2013.06.27
参議院選挙に向けて政界や報道関係の動向が否応なしに目に入ってくる毎日である。各党は存続や成長を賭けて、死闘の展開を強いられているのがよく分かる。国民受けのよい公約を並べているが、選挙の為としか思えないような欺瞞に満ちたものまで多々ある。絶好調の与党は世論を背景に強気の戦術を布いている。それに対して野党は、独自性を発揮できず弱気になっているように窺える。どちらにも良いところと悪いところがあるもので、一筋縄では行かないのが政治の世界である。国民は概して、明るい未来を実現してくれそうな、実行力のある党を選択する筈である。いくら考えがよくても実行不可能なものは、見抜いてしまうのである。その場かぎりの甘い言葉に一度は騙されることがあっても、二度目は騙されることなどありえないのである。原発、憲法改正、近隣国家の外交等のシビアな問題は、メディアが行う世論調査の結果とは、やや違うような気がするのである。各メディアは 『 精査した結果がこのとおり 』 と発表しているが、質問の仕方や選択項目の内容によって真意のズレが大きく出るものである。正しいようで実は、正しくないのである。それをあたかも「国民の声です」と発表するから、疑うことを知らない人々は、まともに信じてしまうのである。各メディアには編集主幹なるものがあって、それに外れない記事を提供しているが、国民を扇動する力があることもしっかり認識して公表してほしいのである。政治とメディアは大衆の心をつかむという共通の効果がある。それだけに国民に対しては、公明正大さを貫くプロ意識が是非とも必要なのである。
2013.07.01
ネット選挙が解禁となり、インターネットを利用した選挙運動ができるようになった。国民の大勢がネットを利用している現在、それを活用しない手はない。しかし、前々から指摘されているように、デメリットも多いように感じている。今日、公示された参院選挙から施行となったわけである。今後行われる全ての選挙に適用されることになり、予断を許さない状況下になる。細かい規制が布かれているが、初めてのことであり、今後いろいろな問題点が指摘されることが予想される。選挙に出る側と選挙する側にはそれぞれに規制があるが、全てを網羅したものとは考えられない。立候補者はきめの細かい取り組みをしないと、死活問題になることから最善の注意を払うことであろう。しかし、一方の選挙する側においては、候補者ほどの規制が存在しているわけではない。そのことから、前々から言われている誹謗中傷の横行が先ず、心配されるのである。ネット上に流れるそれらの情報が大きく膨らむと、制御不可能になる心配が生じる。日本は高度の民主国家であるので、アラブ世界で起きた 『アラブの春』 のようなことは考えられない。独裁政権化の国々にあるような不平や不満は日本にはないからである。しかし、絶対とは言えない。また、日本の現状を鑑みるとネット利用者は限られた年代に偏っていることが明らかになっている。ネット選挙解禁になってもその効果は、今のところ暫定的な感じがするのである。また、ネット利用者で情報リテラシーを活用できる人々ばかりとは思えないのである。今後のネット選挙の在り方に注目をしていきたい。
2013.07.04
今の世の中、グローバルに捉えても決して平和の時代にあるとは思えないところがある。人間が生活するのに必要な衣食住が満たされれば、それで平和だと思えた時代がかってはあった。しかし、今はそんな単純な時代ではないのである。平和とか幸福とかの概念も画一的ではない、多様性の時代である。20年ほど前のインターネットの出現により、地球人の生活が一変したのである。多くの情報を瞬時に取り込める魔法の杖により、今までの不変の価値観や概念が崩れ、ファジィな考えが一般的になってきたのである。まさに複雑怪奇の時代に入ったのである。今までのような真偽だけでは定義できないような複雑な概念や予測不可能なカオス理論が罷り通るそんな時代に入っているのである。物欲が足りても精神的欲望は限りなく発生するのである。言い換えれば、人間にある煩悩は益々膨れ上がり、止まるところを知らないのである。こんな時代にあっても国どおしの諍いが絶えないのは、今の時代にはふさわしくない現象であるとも言える。ファジィな時代、カオスの時代、マクロの時代などと言いながらも、一人の人間に立ち返ると、狭い我利我慾に囚われてしまうのが人間の常なのである。人間どうしを越えた国家間どおしの外交においても然りである。度量が狭いことだと理屈では認識していても、そこまで許容できないのである。地球が一つの国家になるまで続く、永遠の課題なのかも知れないと思う、今日この頃である。
2013.07.08
日本画家でありながら、なぜ政治色の強い話ばかりを書くのだという声が聞こえてきそうな気がする。画家は絵だけを描いていればよいんだという考え方もある一方で、人間である以上、一般常識もなくして画家と言えるのかというのまで実に様々である。画家が芸術家と言われるのは、現実の世界よりもはるか彼方の未来に向けて働きかけている結果であろう。常人にはない特殊な才能を発揮しているからに他ならない。一般に画家を含めた芸術家は変わり者(変人) が多いと言われるのは、一般常識を超えることによって真の創造が生まれるという観念があるからである。そのために彼らは、一見すると変人っぽく見えるのである。しかし、内実は純朴な人間が多いように見受ける。よい作品を造ろうと思うと、この常識をつねに超えなくてはならない。芸術家は常人と変人の両面性がなければできないものだとも言えるのである。政治に強い関心を持ったピカソなどは共産主義者として一生を全うした人物であった。(ピカソについてはよく知られているので省きたい) また、日本では藤田嗣治も政治に関心が高く、第2次大戦中は当時の軍事政権に協力をして戦争画を多く描いた。そのために敗戦後は、軍部のプロパガンダに利用された画家として汚名を着せられてしまった。彼としては日本国のために働いたという大義名分があったはずである。しかし、美術界からはことごとく非難されてしまった。そのことに嫌気が差して日本を去り、フランスに渡ったのである。それ以来、二度と日本には戻ることはなかった。彼は後に 「日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」 と語っている。これほど愛国心に満ちた言葉が他にあるであろうか。このように、彼らは政治と深く関わりながら画家としての道を究めていった。もし、政治に関心がなかったとしたら、あれほどの業績は残せなかったであろうと思えるのである。
2013.07.12
前記の政治と芸術は表向きのきれい事に終始したので、ここではその裏話についても触れておきたい。ピカソは政治に本当に関心があったかどうかは疑問とする見解もある。スペインに生まれながら活動の拠点はフランスのパリであった。当時スペインは内戦状態にあって、混乱の真っ只中であった。そのため彼は、祖国には帰らずにパリにそのまま残った。そのパリからその内戦の元凶である軍部政権に対して痛烈な批判を繰り返していたようだ。抵抗する姿勢を見せるために、わざわざフランスの共産党に入党して外部から祖国の体制批判をしていたのである。彼はその頃から世界的なな画家として名を馳せてていたわけで、彼の発する言葉は大きなインパクトを与えていた。一方、作品で体制批判したのが、かの有名な 『 ゲルニカ 』 であった。しかしながら、彼の生き方に万人が賛していたわけではなかった。彼はスペイン内戦の招集を逃れるためのポーズであって、もともとは臆病者であったという評判もある。彼は権力を極端に嫌う反体制思想の持ち主であったことは、フランスの共産党に入党していた事実から証明できるのである。また、次のように指摘している評論家もいる。「 彼は芸術家にありがちな自己中心主義的な考えの持ち主であった。自分の画業を妨げるものは全て拒否しただけのことであり、もともと政治なんてどうでもよかったんだ 」、「 第2次大戦中もパリにいたのは、絵の具がいつも手に入るから残っただけのことで、政治がどうのこうのではなかったんだよ 」 など・・・・ この説にうなずける節が、確かに経歴の随所に見られるのである。
一方、藤田嗣治についても前記したものとは全く違う説もあるので記して置きたい。ピカソとも親交が深かった間柄であった。同じ時代に世界を股に掛けた画家としての共通点が二人にはあった。共に絵に人生を賭けていた点である。彼は第2次大戦開始直前にパリから日本に帰っている。本心はピカソのようにパリに残って制作を続けたい気持ちがあったのではないかと思われる。しかし、当時日本は世界を敵にまわして戦っていたこともあり、パリに残ることは生死に関わる状況にあったからである。日本に帰ってくると自分の本心とは違う社会体制が待ち構えていた。軍国主義に染まった日本において、反体制的な行動は取れるはずもなく、しかも彼の親族には軍人あがりが多く輩出していたこともあって、自然に軍部のプロパガンダに利用されることになったのである。そうしないと絵の具も手に入らないことから必死の選択をしたものと思われる。また、従軍画家として戦地に赴いたり、戦士の鼓舞のために多くの戦闘画の大作を描いている。国のためにというよりも絵が描けるからそうしたのだという説もある。もともと彼は、「 芸術家にありがちな自己中心主義者で、政治に関心があったわけではない 」、「 国のためと言っているが、もともと顕示欲の強い彼だから目立ちたいためにやっただけだ 」 など・・・・・「 敗戦後、GHQ から戦争責任追求をのがれるために逃げまくった汚い奴だ 」、「絵の具ほしさに心を売った奴 」 などと悪評が実に多いのである。当時の日本美術界においては藤田の行動は異端に見えたのである。また、当時の藤田は日本よりも海外で知られており、日本画壇を無視したような行動は一種の妬みを招いたのであろう。世界的な評価を得ていた彼としては、日本における自分の立場が余りにも低い事実を知り、憤りを感じたのであろう。
表の評価と裏の評価が、余りにも違うと判断に迷いが生じるものである。二人を例に挙げたが、人間である以上、完全無欠などありえないことである。作品の背景を知ることは大切ではあるが、作品のよさはこれとは違うのである。別の言い方をすると人間性がよいからよい作品が生まれるのではなく、人間性が悪くてもよい作品は生まれるのである。しかし、作者と作品は表裏一体の関係にあるのである。人間性がよくても悪くても、その作品に投影されるものである。不思議にも作者不明の名画などはあり得ないことから説明できるのである。
2013.07.15
画家が本命の絵以外の分野で才能を発揮すると、それを嘲笑するかのような雰囲気が存在するのである。一昔前の画家の多くは、画論についてはあまり積極的な取り組みが見られない。評論家任せの感じである。もちろん口頭の記録はたくさん残っている。絵と文章では使う頭脳が180度違うことから、文章を下位に捉えていた風潮があるのを感じるのである。また、基礎・基本にあたる美学・美術論を学ぶ機会を持たずに画家になった当時の多くは明確な理論を打ち出せない自信喪失の雰囲気があったように思えるのである。しかも、当時は文章で表現する場も今のようになかったのも一因である。ひたすら作品で発表するしか方法がなかったのである。
画家には学歴は不要なものであるとしても、基礎・基本を学んだか、学ばなかったかは画業の展開で大きな枢軸をなすものである。たたき上げの画家の多くは、作品こそ自信に満ちて力強いものを感じるが、理論の幅が狭く、失望させられることがよくある。もちろん例外もある。これらの画家は独学で基礎・基本を学んでいるのである。美大へ行かなくても、学習意欲があれば当然できるのである。絵は感覚技能の世界ではあるが、根底には基礎・基本に関わる思想がなければ長く続けられるものではないのである。また、前にも述べたが、絵は単なる習い事ではない。創作活動の一環なのである。作者の思想が根底になければ成り立たないのである。はじめは習い事からスタートしても深まっていくと、自然と目覚めていくものである。一朝一夕でできるものではない。途中で止めてしまうと絵の本髄に触れることなく、単なる習い事で終わってしまうことになるわけである。
因みに、ピカソと一緒にキュビスム運動を起こしたジョルジュ・ブラックは理論派で多くの名文を残している。反面ピカソは感覚派で文章こそは残していないが、口頭ではよい言葉をたくさん残している。また、特筆すべき芸術家として、マルセル・デュシャンは理論家として、現代美術の指針になるようなすばらしいものを多く残している。日本では洋画の林武や岡本太郎なども画論に厳しい姿勢を示していた。総じて日本画家は職人的技巧が多く、理論性に乏しいことが事実としてある。ただ、日本画の場合は長い間、師匠から弟子に伝える秘法としての伝統があった特殊事情に、留意して語らなければならないのである。
2013.07.19
日本画家で比較的画論を強く打ち出しているのは、川端龍子や加山又造などを挙げることができる。他にも多多あると思うが、私が知らないだけのことなのか、あるいは秘法として一般的に知れ渡っていないことなのか定かではない。自信をもって言えることではないので予め断っておきたい。
川端龍子は昭和初期から中期 ( 昭和40年代はじめ ) に活躍した画家である。もともとは洋画家としてスタートを切っている。絵の勉強のためにアメリカに渡っているが、そこで待っていたのは期待とは裏腹のカルチャーショックであった。日本の洋画では太刀打ちできないことを肌身で感じ取り、絶望感を味わったようである。たまたま立ち寄ったボストン美術館に展示してあった日本の絵巻物を見て日本の絵のよさを再認識したようである。その後、日本に帰り、日本画の活動をはじめるきっかけになったわけである。彼は従来の日本画に見られた 『 床の間芸術 』 から脱却し 『 会場芸術 』 を、 そして 『 大作主義 』 を唱えたのである。この考えは私の制作の指針として、今尚受け継いでいるものである。
一方の加山又造は、第二次大戦後、活躍した画家である。西陣織りの図案を正業とする家庭に生まれた。生まれながら画家の素養を授かっていたのである。彼の活躍した時代は平山郁夫や横山操などがおり、お互いにライバルとして、また、日本画壇のリーダーとして活動していたのである。彼は日本の伝統様式を現代的様式につくりあげ、新しい日本画の世界を表現したのである。彼は画論で次のようなことを述べている。「絵は造っては壊し、壊しては造るの過程を経て、やっと新しいものを生まれるものである 」 、「 同じ事を繰り返していては、新しいものは生まれない 」 、「 そのために5年周期で大きく転換している 」 などの言葉を残している。この言葉に近いことをピカソも言っているのである。どちらが先に言ったのかは定かではないが、洋画と日本画を問わず絵画の本質に迫る観念を二人とも持っていたことである。時代を先取りするような画家は、先見の明があるんだということをつくづく思い知らされた。加山やピカソの共通点は、洋画とか日本画、西洋とか東洋などの垣根を取っ払った視野の広い観念から捉えていることにある。別の言い方をするとグローバリゼーションを既に身につけていたことである。また、この考えは絵画の本質を衝くものであり、作品とともに高く評価をしたいと思う所以である。
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2013.07.23
人間には誰しも表の評価と、裏の評価の両面を持っているものである。今でこそ川端龍子は高い評価を得ているが、当時の画壇においては異端として扱われ、評価は決して高くなかったのである。当時の日本画は床の間を飾る為の掛け軸が主流で、「 床の間芸術 」 と呼ばれていた。小奇麗で繊細な小品がもてはやされていたのである。彼の型破れの荒々しい大作は、当時の画壇においては快く迎えられるはずもなかったのである。彼は独自の道を歩む覚悟を決め、「青龍社 」の旗揚げをすることになったのである。「 大作主義 」、「 会場芸術 」 を標榜し、従来の日本画の概念を大きく変える変革をしたのである。しだいにファン層も広がり、知名度の高い展覧会へと成長していったのである。彼の型破りな発想は、当時の権威主義に反発したものと捉えられていた。ところが、次第に名声を得ると、事もあろうに権威主義の象徴である帝国芸術院会員を受諾したのである。その為に一部から疑問の声があがったのである。その後、会員を辞任したものの、結果として変節した芸術家としての汚点は残ったのである。青龍社の解散についても問題を呈していた。この青龍社はもともと彼の私財でできたものではあるが、多くの会員を要しており、個人の所有物ではなくなったにも関わらず、一方的に解散宣言をしたのである。路頭に迷う会員も多かったのである。まさに罪作りの出来事であったわけである。その後、東方美術や日本画府が旗揚げをするきっかけになったのである。作品の裏側にあるドロドロとした人間模様を手繰っていくと、作者の本質に迫ることができるのである。作品は好きだけど作者は嫌いだとか、作者は好きだが作品は嫌いとかを言う場合もあるが、往々にして作品と作者の両方を鑑みて判断することが多いのである。作品だけとか作者だけの一方的な捉え方は少ないのである。芸術品と一般商品の違いを考えれば納得できるはずである。前にも述べたが、人間である以上、必ず欠点もあるわけで、それを許せるか、許せないかが評価の分かれ目になることが多いものである。彼の残した作品には、その欠点を忘れさせてしまうくらいのすばらしいものがあるのである。
2013.07.26
大学で美術を専攻して以来、早いもので約50年が経過する。はじめはデザイナー志望であったが、芸術論、造形論、作家論などの美学を研究しているうちに、作家と作品の関係に深く興味を持つようになった。商業美術を扱うデザインでは現実的過ぎてライフワークに向かないことに気づき、紆余曲折をしながらファインアートを選んだわけである。大学では絵画コース・油絵を選んだ。卒業後は洋画家として活動をしていたが、およそ20年後に一大決心をして日本画に転向したのである。その間、多くの画家の影響を受けてきた。主にピカソ、ゴーキー、クリムト、ボナール、マルセル・デュシャン、クリスト、フォンタナ、川端龍子などである。制作には直接的関わりがないが、考え方に大きな影響を受けている。特にピカソやクリムトは影響が大である。日本画へ転向してからは川端龍子の考えに感銘を受けた。クリムトについては日本画に転向してからでも影響を受けてきた。発想や画面構成の影響は大である。ただ実際の作画には参考にした程度で、実際には独自のものを考案してきた。亜流でない独自性を見つけるということは、立ちはだかる得体が知れない壁のようなものを越えることである。表現技術は、制作を続けていれば自然に身につくものであるという考えから特別なものはない。絵は表現活動であるので、学問として捉えなくても制作を続けていくうちに知らずのうちに壁を越えていることが多いのである。感性の豊かな人や意欲のある人は、早くここに到達できるのである。長い間、絵をやっていても、そのことに気づかない人もたくさんいる。時たま、よい作品を描ける程度ではこの壁を越えていないことが多いものである。コンスタントに高いレベルの作品を描ける人は、その壁を完全にクリアーしている人のことである。そこまで行けば、あとは独り立ちのできる作家のステータスを得たようなものである。
2013.08.02
絵は絵だけを描いていれば上達するものではないのである。うまく絵を描けるかもしれないが、それは表現技術だけのことであって絵の上達とは違うものである。常に新しいトライをして、同じことを繰り返さないことが真の創造に繋がるものである。同じところに止まっていては、真のアーチストとは言えない。売れそうな絵を繰り返して描いているのはアルチザンの技なのである。そのことを自覚してやるならば、全く個人の自由である。他人がとやかく言えるものではない。しかし、それが絵の道だと信じてしまうのは問題があるのである。習い事や趣味程度ならば許されることではあるが、プロを目指す者においては、留意しなければならない一種の壁が存在するのである。その存在に気づき、越えることができたならばアーチストとしての未来は明るいのである。もたもたしていると次の段階に乗り遅れてしまうのである。これは目に見えるものではないので、それを自覚できるかどうかが大きな分かれ道になる。それを乗り越えることによって、苦しみの後の快い気分を味わうことができるのである。また、越えられない場合はスランプに陥る可能性が大なのである。どんな画家になりたいのか、予め見通しを立てて取り組む必要がある。途中で筆を折ることのないように、しっかりした考えを持ち、一つ一つの壁を乗り越えなければならないのである。そのためには幅広い学習が必要である。いろいろなことに興味を抱き、そして挑戦をし、実践力のある幅広い知識が必要なのである。それが結果的に、絵の上達に繋がるものとなるのである。絵だけの狭い考えに囚われていては真の上達は望めないのである。ただ、ここで誤解してはならないのは、絵だけの狭い考えも当然必要な条件なのである。 しかし、十分な条件とは言えないのである。絵以外に特殊能力を持つことによって、独創性が生まれるのである。皆と同じことをしていては独創性は発揮できるものではない。表現活動においては、この独創性が大切な条件になるのである。
2013.08.04
絵の世界に入り込むには余裕がないことには浸ることはできないらしい。余裕には時間的なもの、あるいは経済的なものなど、その他もろもろが関係してくるらしい。周りを見ても 「 絵どころではないよ。勝手にやってよ 」 という声が聞こえてきそうである。時たま社交辞令で 「 いいですね。絵をお描きになるんですか。どんな絵をお描きになるんですか 」 などの言葉をかけてくださる有難い御仁も、たまにおみえになるのである。しかし、話しているうちに、本心ではないことが分かってしまうことがよくある。このご時勢では本当に絵どころではないことは、重々承知しているから、本気で怒る気にもならないのである。中には「 いい趣味をお持ちで、うらやましいですね 」、「 そんな大きな絵を描いて、どこに飾るんですか 」、「 そんな大きい絵では売れないでしょう 」、「 儲けにならないことを、よく続けてやってみえますね 」 などと、こちらの気持ちとは裏腹の言葉を発せられ、随分と傷つけられることがよくある。こちらの内心は、「 趣味でやっているわけではないよ。趣味以上のことをやっているんだよ 」、「 家に飾るための売り絵を描いているわけではないよ。自己の証明 ( アイデンティティー ) のための活動をしているんだよ 」、「 商売のために絵を描いているわけではないんだよ 」、「 損得感情でやっているわけではないんだよ。自己の挑戦 ( ライフワーク ) でやっているんだよ 」 と言い返したい気持ちに駆られることがある。しかし、言っても分かってもらえることではないので、そのような時は適当に言葉を濁らして、場を取り繕ってしまうのである。これは作家自身の問題であるので、第三者に理解を求めることでない。 ただし、出来上がった作品を観てほしいという気持ちは高く、そして何かを感じてほしいという気持ちは強いのである。
2013.08.08