画家の眼 ⑧
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。 元旦
2014.01.01
東京都知事選の乱立ぶりを見て思うこと・・・・リーダー不在の結果なのか、それとも、不穏な世相の表れなのか理解に苦しむ状況下である。脱原発を争点にした二極化の現象が鮮明になってきた。先の郵政民営化の国会選挙戦を彷彿させる選挙大勢に突入しそうな雰囲気である。原発の是非は、国政に委ねられている懸案事項であるにも関わらず、都知事選で取り上げることに違和感を強く感じるのである。脱原発を第一の争点にしている陣営は、国政での波及を期待しての戦略だとは思うが、何かすんなりとは受け入れ難いものを感じるのである。都政として、もっとやるべき優先課題があるはずである。都民しか参加できない選挙に、国政選挙のような大きな政争を持ち込むべきではないと思うのである。まさに脱原発を政争の具にしている状況は異常と言うべきものであろう。
2014..01.15
情報化社会も疲れる・・・・いろいろな情報が否応なしに入り込んでくる現代社会は、便利がよい反面、余計な神経を浪費し、却って疲れるのである。自分の都合のよい情報を収集するには、さほどストレスを感じないが、都合の悪い情報まで否応なしに目に入ってくる状況は、まさに公害とも言えるもので、ストレスを強く感じるのである。例を挙げると、国際情勢の懸案事項についてのスレ (スレッド) が氾濫しており、嫌でも目に入ってくる状況は不快そのものである。ならば使用を止めればよいわけであるが、それができないところに強いジレンマを感じるのである。 convenience が実は inconvenience であることを・・・・・
2014..01.22
日本 vs 中韓の対立が日増しに激化している状況について・・・・巷にはナショナリズムを煽るマスメディアの情報で満ち溢れている。かってのテレビや新聞だけが主体の時代にはこのような過激な状況は、決して生まれなかっただろうと思えるのである。今の時代はインターネットの普及により、情報を一方的に受け取るだけでなく、自らが情報を発信できるようになった。それがこのような不可解な状況を生み出している一因では、なかろうかと推測するのである。ナショナリズムはいつの時代でもあったものであるが、現在のような過激の状態に陥るのは明らかに常軌を逸しているのである。これでは簡単に修復できるはずもないのである。お互いに、国どおしの互恵関係があるにも関わらず、それを捨ててでも強引に主張するナショナリズムは異常の域に達しているのである。先々のことを考えたらできない筈だと思えるようなことを、平気で言ったり、行動に移したりする状況は、国家としての体を成していないのである。まるで子どもがダダをこねるのと同じなのである。前にも述べたが、世界の国同士の関係が児戯的になってきた証拠でもあると言えるのである。一方が大人の対応をしても、もはや通じない状況は嘆かわしいの一語なのである。
2014.01.27
現在の日本は高度の民主化が進んだ国と言われているが、果たしてそれが国民にとって幸せなのか疑問に思うことがある。何を言っても、何をやっても、法律に触れなければ許されることが本当に幸せなのかどうか・・・・無政府状態にも成りかねない状況化が発生してもどうすることもできない危惧を孕んでいるのである。反対に民主国家とは名ばかりの途上国では、未だに言論統制や思想統制が平然と行われているのである。それを上手く利用し、レイムダックに陥るとナショナリズムを煽っては疑念を払拭する手法を常套化しているのである。自国の政治批判はできないが 「愛国無罪」 は堂々とてきるのである。無分別な言動は、自国の不満をも含めた結果なのである。この不満がいつかは、自国政府自身に向けられる危険を大いに孕んでいるのである。どちらにしろ、メリット、デメリットが存在するものである。国民にとってよいのか、施政者にとってよいのかが判断を迷わす疑義の種となるのである。
2014..02.03
エゴ丸出しの国際関係を見ると何か寂しいものを強く感じる。自分もその輪の中にいるわけで、他人に責任を被せてはいけないと思いながらも、人間の弱さかな・・・・狭隘の世界に入り込んでしまう。国と国の関係が人と人の関係にダブって見えてしまい、国家としての威厳さを失ってしまうのである。自国の価値観で他国を見てしまうと、どうしても偏狭な心が騒ぎ、狭隘になってしまうものである。一過性の民族主義に陥ってしまうのである。近隣国家の見境ない誹謗中傷が、自制心を失わせる結果となるのである。どこの国も自国の国益に沿って外交をしているわけで、他国を責める資格はないが、大人の外交と称して黙り外交をすると、それを受け入れたと解釈をされて、ひどい目にあうのが常套化してきている今日の国際情勢なのである。黙り外交のツケが、今の弊害を引き起こしていると言っても過言ではないのである。また、国際外交で気がかりなことが、もう一つある。それは同盟国の関係を結んだとしても、複雑多岐に渉る現在、すべての面で信頼関係を築くことなどは、不可能に近いことを認識する必要があるのである。同盟国だから、助けてくれるなどと高をくくってはいけないのである。国益に沿わなければ簡単に同盟国関係を破棄される国際情勢である。かっての味方は現在の敵、かっての敵は現在の味方に簡単になる時代にいるのである。国際社会においては、義理も人情も通用しないのである。それは自国だけに通じる価値観と認識したほうが、後悔先に立たずなのである。
2014..02.09
国際情勢を注意深く眺めると分かってくる事実・・・・表に出てくる外交には、それとは反対の理念を内包していることがよくある。まともに信じてしまうとひどい目に逢うことは、日常茶飯事なのである。国と国の駆け引きは、人と人の関係によく似ていて、複雑怪奇である。同じ日本人同士の関係でも、腹の探りあいは簡単ではないのである。況してや外国人との関係は、なお更である。お国柄が大きく反映しており、その真意を計り兼ねる国家が大変多いのである。地形的に、近い国同士でも然りなのである。良かれと思って対応しても、相手国には、その善意が通じず、苛立ちを感じることがよくあるのである。
さて、最近の社会情勢で外交やその他の面で気になることを列挙してみた。
・ 同盟国の関係は形骸化してきたのではないか。
・ 敵対する国家同士でありながら、接近度を増している昨今の情勢をどう捉えるのか。
・ 米国中心の経済機構に世界は不満がないのか。
・ 国家間が児戯化しているが、今後ともひどくなるのか。
・ 世界の警察官と言われる米国は、益々内向きになるのか。
・ 経済力中心の世界から脱皮できる時代が来るのか。
・ 原子力を制御する技術は、将来的に可能なのか。
・ 第三次大戦の勃発はあり得るのか。
・ 自国だけの平和憲法が他国にも通用できるのか。
・ 自国の安全保障を、今後とも他国に委ねていいものか。
・ 少子化の問題は克服できるのか。
・ 自国の根幹特殊技術は今後も持続できるのか。
・ 自然災害はコントロールできるのか。
・ 原子力に頼らないクリーンエネルギーの確保はできるのか。
・ 戦勝国と敗戦国の関係は永遠に続くのか。
・ どの国も遵守できる確たる国際規範はできるのか。
・ 国連の改革は今後期待できるのか。
・・・・・・・・ etc.
2014..02.17
中日新聞( 朝刊 ) 記事より 2014.02.19
「 政治的 作品撤去を求める 」 記事の反響を見て思うこと ①・・・・同じ作家として擁護したいところであるが、次の点について疑問を持つのである。「表現の自由」 に隠された真意を拡大解釈してはいないだろうかと言うことである。言い換えれば、芸術という名のもとに自己本位の、勝手な論理を翳していないかということである。そして、責任のない気ままな論理が芸術なら許されるという思い込みがありはしないかという点である。芸術活動も人間の営みの一つである。特別な権利があるわけではないのである。自由に思ったり、考えたりすることは、民主主義の世界では当然として許されることである。しかし、それを文章や絵などに表現した作品は、頭の中のだけのイメージとは明らかに違う具現化した実態が存在するのである。 ( 著作権侵害の法律箇条を参考 のこと) その作品は他者に、良し悪しは別として大きなインパクト( 影響 ) を与えることになるのである。当然として、そこには発表者としての責任を伴う表現の裏を意識する必要があるのである。「 芸術=表現の自由 」 と短絡的にとらえてはならない暗黙の了解が存在するのである。表現の自由がある以上、自由に発表すればよいのではないかという考えもあるが、その考えは仲間うちに通じる考えであって、世間一般に通じるものではないのである。政治を扱った風刺的な作品 ( パロディー ) があるが、これとても「 表現の自由 」 だからと言って個人や国家を傷つけることは許されないのである。( 人権問題に関わる ものである ) 先にフランスのパロディー作家が日本国を傷つけるような作品を発表して、物議をかもした例などはそれに当る。「 芸術だから笑って済ませろ 」 の対応をしていたが、そんなものではない。しかも、当時フランスの政府は日本は肝っ玉が小さいなどとコメントを出していたが、とんでもないおかしなことである。そのような考えは、理不尽な行為は全て芸術という名のもとに、許されてしまうという危惧を生じるのである。楽天国家も程があるというものである。開いた口が塞がらないとはこのことを指すのである。芸術国家を返上すべき軽薄な言動でもある。
今回の件で、都美術館「 クレーム心配 」との記事タイトルがあるが、公共の美術館なら当然のことである。もし政治色を強調したかったら私設の美術館でやるべきである。( 私設でも理解されないこともあり得る問題 )
税金で運営している都美術館であることから、小室明子副館長の撤去を求める要求は当然なものと言える。これを大げさにして騒ぐ方がおかしいのである。コメンテーターに田島泰彦上智大教授の言葉が載っているが、「会場の使用権を持つ美術館側が、立場の弱い作者に撤去や改革を迫るのは、表現の自由の根幹部分を抑圧している。・・・・」とあるが、立場を変えて見れば逆の論理が成り立つのである。税金を使った公共の美術館は、作家のためだけの配慮だけではなく、鑑賞者の配慮をもしなければならないのである。作家は自分だけの権利で「 表現の自由 」 を翳し、異議を唱えているがどちらが弱い立場なのか、深く考えれば分かる筈である。納得いかなければ出展を控えるぐらいの行動に出てもよかったのではなかろうか。後からメディアを利用して訴えるやり方はとても弱者の立場とは言えない。芸術に政治色を取り込む場合は、直接的な表現よりも間接的な表現の方がより効果的である。直接的表現は卑近になり過ぎるからである。もともと芸術は近い現実よりも、遠い未来を語るものでなければレベルが高いとは言えないのである。その他、従軍慰安婦を題材とした写真展が会場を拒否された件も触れているが、これにしても「 表現の自由 」の大義名分 を振りかざした「 表現テロ 」 とも言えるものである。プロパガンダに利用していることは自明なのである。世界中に展開しょうとしている某国の「 慰安婦像 」 も、この表現の自由を逆手にとった「 表現テロ 」 と言っても過言ではないのである。
2014.02.19
「 政治的 作品撤去を求める 」 記事の反響を見て思うこと ②・・・・こちらが予想していたよりもはるかに少ない反響で、実はビックリしている。美術はいかに少数派であるかを再認識したところである。ある雑誌の記事に「 日本において美術に関心のある者の人口割合は、総人口の約 1パーセントぐらいであろう 」 と論調したものがあったが、頷けるものがある。日本の人口 1億とすると100万人ぐらいの方が美術に関心を払っていることになる。相当な数である。しかし、総人口の割合が少ないので、全ての方々が主張したとしても、国を動かすような大きなうねりは期待できそうもないのである。今では ITの発達で個人の意見をいろいろな場に発信できることもあって、生の声を垣間見ることができるのである。しかし、それも ITの活用ができる一部の意見のみである。芸術や美術のエキスパートやスペシャリストの意見を直に聞きたいと思っても、現実的には無理なのである。エキスパートやスペシャリストになるには相当な年期が必要であり、それに該当する多くの方々は高齢になっている現状があるのである。直接伺って取材をしない限りは、生の声は望むべくはないのである。ここで私が特に言いたいのは、誰の意見も尊いものではあるが、この問題は作家側や鑑賞者側と行政側の三位一体の総合的なバランス感覚が、必要ではないのかということである。この問題は全国にある公立美術館全てに、当てはまるものであって、一方的な見地は許されないのである。ブログやSNS等の意見に、「 表現の自由を侵す行為で・・・・民主主義に危機感を生じる 」 とか 「美術館の役割放棄である 」 とか 「 美術館にはアートの専門家がいるのか 」 などの作家を一方的に擁護する意見を多く見るのである。それはそれで間違ってはいないと思うが、反面、片方に寄り過ぎたきらいあって、バランス感覚が見られないのである。芸術や美術は作家のためにだけにあるものではないこと、また、美術館も作家だけのものではなく、鑑賞者もいることなど・・・・。それらを考えれば、当然として片手落ちの判断は許されないのである。「 表現の自由 」 は責任を伴うものでなければ、意味をなさないことに注意を払うべきなのである。「 表現の自由 」 を隠れ蓑にした相手を攻撃するような表現は、民主主義の考えに明らかに反するもである。作家も一人の人間であり、特別な権利があるわけではないのである。この 「 表現の自由 」 の深い意味を、十分理解して発表する必要があるのである。そして、安易な直接的表現は芸術性に乏しいことを肝に銘じるべきであろう。
2014.02.24
「 政治的 作品撤去を求める 」 記事の反響を見て思うこと ③・・・・前出の記事から 「 お前はそれでも作家なのか 」 と言う声が聞こえてきそうな気がするので、もう少し掘り下げて述べたいと思う。作家の立場からすれば、怒り心頭の出来事であるというのもよく分かる。当事者である中垣克久さんの言う 「 表現の自由を侵すことにつながりかねない 」 と言う発言もよく理解できる。しかしながら、今回の場合、作家の表現以外の問題が絡んでくるのである。「 表現の自由 」 は作家個人の権利であるので、とやかく言えることではない。ただ、言えることは発表する場が適当であったかどうかである。公共の美術館で、その発表が許されることなのか、どうかということなのである。税金でまかなわれている施設であることを考えれば、そこには当然として規制が存在するものである。その規制を作者が受け入れられない場合とか、 「 表現の自由 」 を束縛されることになると思えば、規制のない自由の場で、やればよいだけの話である。これは作家の良心の問題でもある。政治的主張の作品を造るか、造らないかは、全く個人の自由である。それこそ 「 表現の自由 」 は侵されてはいないのである。それでも納得がいかなければ、出展をやめればよかったわけである。美術館側が作品の手直しをしなさいとは、言っていない筈である。「特定の政党に反対するものは、都の運営要綱に定められた施設を使用させないことができる 」 という規定がある以上、それに従うしかないのである。作品を撤去されるのがいやで、作品を修正したとしたら、本末転倒な言い訳である。 「 表現の自由 」 を侵されると思ったら撤去される覚悟で事にあたってほしかったと思うのである。しかし、ゆくゆく考えれば、この問題はあらかじめ予測できた筈である。美術家だから、芸術家だからというような甘えは、一般社会では通用しないのである。社会人としての常識もなくして、美術家・芸術家などとは言えないきびしい現実が、あることも作家は認識すべきなのである。
2014.02.25
「 政治的 作品撤去を求める 」 記事の反響を見て思うこと ④・・・・公立の美術館を利用して作品を発表する場合、多くの細かい規制がある。今回の例にあるような思想的な規制の他に、使用上の諸注意が、たくさんあるのである。利用する側は、そのような細かい規制を意識しないままに利用していることが多いのである。美術館側から指摘されて、やっと気づくというのが正直なところである。ここで述べている筆者もその例に倣えなのである。一般的な認識と違う特異な規制を列挙してみると・・・・・・・
・ 花やその他の植物は展示してはいけないこと
・ 土を持ち込む展示物はできないこと
・ 水を使った展示物はできないこと
・ 可燃性の高いもの ( ガソリンや石油類、蠟 など ) の展示はできないこと
・ 食べ物や匂いを発するものの展示はできないこと
・ 鑑賞者に不快感を与えるものの展示はできないこと
・ 動物の展示はできないこと
・ 刀剣類等の武器の展示はできないこと
・ その他、危険を及ぼすと考えられる展示物はできないこと
・・・・・etc.
常識的に判断すれば納得のいくものではあるが、花や土や水を使うのは何故いけないのかと、疑問を持たれる方もいると思う。美術品の宿敵が、湿気とカビなどの細菌であることを考えれば、納得がいくと思うのである。公共の施設であることから、これらの規制は当然のこととして容認できるはずである。美術館運営要綱にある規制を承知した上で、利用することが常識ある社会人というものではないだろうか。美術家・芸術家だからといって許される特権は、何もないのである。これらの規制を受け入れた上で、「 表現の自由 」 を満喫し、しかも、高い創造性を発揮すれば、「 表現の自由を侵す危険 」 などは全くないはずである。
2014.02.26
「 政治的 作品撤去を求める 」 記事の反響を見て思うこと 最終編 ⑤ ・・・・ネット上を見ると中垣克久さんを擁護する意見が多数を占めている。表現の自由を侵害された弱い立場の作家として同情を寄せた結果であろうと解釈している。擁護するために抗議の署名活動まで展開されているのを見て、看過できないものを感じたのである。今回の出来事の大きな観点は三つあると思うのである。その一つは、作家個人に対する 「 表現の自由 」 の問題であり、二つ目に発表する 「 展示場所 」 の問題、そして、三つ目に作品を観る側であるところの第三者、 「 鑑賞者 」 の問題に大別できるのである。それらを大局的に判断をする必要があると思うのである。一方側に偏った見方をすると収拾がつかなくなる問題である。 今、問題になっている某国の 「 慰安婦像 」 建立の件を例に考えれば、もっとシビアーに捉えられると思うのである。 「 表現の自由 」 を逆手にとった政治色の強いモニュメントを世界中に造ろうとしているのを見て、日本人として強い憤りを感じているはずである。「 展示場所 」 もわきまえず、世界中のあちこちに建立することを目指しているのである。それを目にする 他国の「 鑑賞者 」 にとっては、全くもって迷惑千万なはずである。
今回の出来事は、要するに公共展示場所の利用規約を精査しなかったために起きた単純なミスなのである。 「 表現の自由 を侵す 」 ような重大な問題ではないのである。それを大げさにメディアや一部の識者が、騒ぎ立てたことから起きたことなのである。議論をしても簡単に論破できる内容なのである。厳しい言い方をすれば、社会人としての常識の欠如が招いた出来事であったとも言えるのである。
2014.02.27
ウクライナ情勢が複雑怪奇な様相を呈してきた。欧米 vs 露 の二極化の争いである。日本としては、そのどちらにもすんなりとは入れない特殊事情が存在するのである。安倍現政権はロシアとの国交正常化に向けて水面下の努力をしてきた訳であるが、それが水の泡と帰すような情勢になったのである。米国追従の悪しき習慣を断ち切るような強い国力が、日本にはないのである。日本の安全保障を米国にすべてを委ねているようでは、できる筈がないのである。今問題の憲法改正において護憲を主張する方々は、米国の傘に入ることを嫌いながらも、現憲法には強くこだわる、その矛盾がよく分からないのである。誰が日本国を守るのであろうか。自立国家を目指すなら他国に依存しない体制づくりをするしかない筈である。平和憲法は自国だけに適用されるのであって、他国には通用しないのである。米国がいつまでも守ってくれるというのは幻想であって、虚構なのである。今のオバマ政権を見るとそのことが、はっきりと窺えるのである。今回のような自国の思いとは違う意思表明は、国民にとって理不尽の一語であって、許容できないのである。
2014..03.08
一昨日、 BiND for WEBLIFE 7 New version が届いた。いつものことではあるが、ワクワクしながらセットアップを試みたものの・・・・前のデータを正しく読み込めなかったために大事になってしまった。今は展覧会の作品作りに追われているところなので、残念ながら不完全な状態にて暫し休止である。
2014..03.22
第61回 日府展出品作も完成し、見通しがたったので従来の生活に戻すことにした。約2ヶ月間 ネットへのコンタクトを絶っていたので、何か新鮮なものを感じる。HPの更新も滞っていることから今後再開をするつもりでいる。ただ凝り性のところがあるので、ネット依存症に嵌まらぬよう、程々を心がけていきたいと気持ちを新たにしているところである。
2014..05.11
第61回 日府展出品作が、努力賞並びに参事推挙のダブル受賞をした。
出品作 ページの巻末掲載の2点です。
尚、東京都美術館で開催の第61回 日府展 2014/05.21〜05.30 の会場風景も併せてご参照ください。
https://www.youtube.com/watch?v=CyF2JhdkQdM
第61回 日府展会場風景
2014..05.22
ホームページや SNS 等を利用してネットワーキングを楽しんでいるが、最近気になる出来事に出会った。過剰に反応する第三者の出現である。やたらと嫌がらせを繰り返してくる輩のことである。何が気に入らなかったのか判断に迷うのである。顔の見えない相手だけに不快極まりないのである。無意識に発信したものが、ある者にとっては怒りを買う要因になることもあり得る。今回はそれに該当するのかも知れない。誰も見てはくれないだろう、読んではくれないだろうと高をくくって発信すると、えらい目に遭う例を、体験してしてしまった。今は慎重にしているが、そのうちに同じことを繰り返すのではないかと自問自答している今日この頃である。
2014..06.10
今年から活動の場を中央( 東京 )に移すことにしたが、その中央も思っていた程の活気が見られないのである。いろいろな事情で中央展を離れて、東海三県( 愛知・岐阜・三重 ) を拠点に創日展という日本画の公募展を運営をしてきたのであるが、メンバーの高齢化にともなって、難しい状況が生じてきたのである。活路を求めるには組織の統合や合併をするしか存続の道がないことを切に提案したが、賛同を得られず、結局は二名だけの移籍となった。中央は組織が大きいだけに運営面では安定している。でも何か一つ足りないのである。その何かは、地方と同じで若者の出現がないことなのである。これは中央においても切実な問題として立ちはだかっているのである。公募展無用論が叫ばれるようになってからか、あるいは時代の流れか分からないが、団体展の魅力が半減してきていることは確かである。若者の出品者がほとんど見られないのである。やっているのは老人ばかりといった現象なのである。一部の有名公募展に出品者が集中していることも考えられるが、それだけでは説明できないのである。どこの会派も同じような社会現象となっているのである。ファインアート( 芸術 ) を追求できるような環境がないのである。生活に余裕がないためにやりたくてもできないのである。美大や芸大は結構繁盛しているのに後継者が育ってこない要因はここだという結論に達するのである。物から心へと価値観を変えることこそが、明るい未来を切り拓く鍵のような気がするのである。ファインアートは華々しい場面は少なく、自己満足で終わってしまうことが多いものである。やっている本人にとっては自己の挑戦 ( アイデンティティーの証明 ) なのでそれ以上のものを求める必要もない。しかしながら社会が無関心では、そうした行為に憧れる人材も育たないのである。いくら個人的な行為とは言えども、社会がその価値を見出さなければ徒労に終わってしまうのである。これらの貴重な行為を崇めるような社会があってこそ、それに挑戦しようとする若者が出現するのである。そこに切磋琢磨する活力のある芸術が生まれる環境となるのである。
2014..07.08
今は少子化が予想されるところの中途段階に差し掛かっていると言ってよいであろう。今後は益々顕著になるようである。国家の存続に関わる重大な問題である。平和になって、安心して暮らせていけることはよいことではあるが、反面、予想もしないような不思議な現象が生じてきているのである。その一つが、この少子化の問題でもあると思うのである。子どもが大事に育てられすぎて、争うことをしない子、協調性のない子、自分勝手な子、我慢のできない子などの人間性に大きく関わる諸問題に表面化してきているのである。もちろん少子化と言われる前にも、これらの問題はあったに違いないが、今のように大きく現象化はしていなかったのである。本来、人間の持っているところのアクティブな面が希薄になっている。俗に言う草食系の若者が目立ってきているのである。これは、あくまでも傾向化である。全てに当てはまるものではないが、一抹の寂しさを感じるのである。知識が豊富な若者達ではあるが、汗を流して行動する体験が不足しているのは一目瞭然である。 コッコッ積み上げる地道な作業を嫌うことや、他人と競争することを嫌う傾向は、我々が育てようとしているファインアートの後継者の問題にも繋がるのである。公募展に出品する若者が極端に減少しているのも、これらの現象の一端なのである。すぐに結果の出る CG (コンピューターグラフィックス) に走ったりするのもこの表れなのである。これも時代が要求する波であると割り切るには時期尚早である。地道に活動するファインアートにもっと光を当てて、若者が憧れる社会を築くことこそ、救う手立てとなるのである。覚めた目で捉えている社会にもう一度、メセナを復活してほしいのである。つまり損得勘定を抜きにファインアートに投資してほしいのである。この効果はきっとブーメラン現象となって、全ての活性化に繋がるはずである。
2014..07.16
前回の記事でメセナに大きな期待を寄せる内容を書いたが、補足として付け加えたい。日本が高度成長に差し掛かる頃、年代で言うと昭和40〜50年代に欧米の企業の在り方を模して、行ったのが最初と言われている。商売の儲け主義から脱却して、一般大衆に利益の還元をこのメセナで返したのがはじまりである。この時期は日本にとって経済大国としての地位を国際的に知らしめた絶頂期でもあった。多くの企業がこのメセナに参加をして、莫大な資金を投じたのである。それにより、日本の芸術・文化は大いに発展したのである。メセナによる効果は企業にとっても、あるいは芸術分野においても相乗効果があり、まさに一挙両得のメリットがあったのである。その頃の新聞やテレビ等のメディア各社も賛同して、芸術やもろもろの文化に惜しみのない手を差し伸べてくれたのである。そのおかげて我々のやっていた公募団体展も恩恵に即し、大いに盛り上がったものである。その後、日本経済の低迷時期に入ると、このメセナも様相が一変するのである。これに比例して、県や国の補助金も大幅に縮小されることになったのである。いろいろな文化事業も自然淘汰を余儀なくさせられる結果となり、経済面で言うところの失われた20年に突入したのである。今まで大きく社会に啓発し、盛り上げてくれた各メディアも扱い方が、日に日に縮小されるようになったのである。今まで紙面の文化欄を賑わせていた公募団体展の美術評を、大手新聞がやらなくなると、それに準じて各メディアもやらなくなってしまったのである。その所為とばかりは言えないが、若者の公募展への魅力を半減させた一因と考えられるのである。メディアの影響はいまだに大きいものがあるのである。若者はメディアの発信する記事に敏感である。それに心動かされて、挑戦してみようとするモチベーションに繋がるのである。日本のメセナは経済状況と直結しており、失われた20年ては、その効果を期待するほうがおかしい状況化であった。しかし、今、景気回復が現実のものとなると、期待したくなるのも必然なのである。もう一度、活気のある日本を取り戻そうと・・・・!!
2014..07.22
情報化の時代で今まで崇高に捉えていたものが、身近になり過ぎてしまい、かえって興ざめをしてしまうようなことがある。ベールに包まれた方が神秘的であったり、より魅力を感じると思うようなことがよくある。しかし、現実の世界はまさにあっけらかんとしているのである。若者にとっては、実体験がなくても知識として既にあり、あたかも体験したような錯覚に陥ってしまうのである。ここには成し遂げた感動はなく、醒めた知識だけが残るのである。何をやっても結果が先に見えてしまうのである。コッコッやることが無駄骨に思えてしまうのである。汗水流して努力することの尊さを過小評価してしまうのである。社会の仕組みも知識として知り尽くしているような錯覚に陥り、先が読めてしまうのである。今の若者の傾向はこのような現象を指して言われるようになったのではなかろうか。情報化社会とも科学万能の社会とも言われる現在、全ての出来事が解明され、情報化されてしまうと、不変と言われてきた真理にも変調を来たすのである。まさに多様化現象に至らしめるのである。人権的には満たされても、個人に立ち返ると何を指針にどう生きていけばよいのか分からなくなってしまうのである。かっての選択肢が少ない時代が懐かしく思えてくるのである。物は満たされても心の中は不満だらけの現代社会において、心の拠り所を宗教に求める人々が多いと思いきや、それとは反対の宗教離れの現象が起きているのである。これは世界的な傾向のようである。現実離れした宗教の話では、現代人の心は満たされないのである。・・・・寂しくなるような現実ではあるが、別に悲観論を述べるためのものではない。また具体的解決策があるわけでもない。先ずは現状認識をすることからはじまる大きな課題として捉えられるのである。
2014..07.28
また暑い夏がやって来た。今年で69回目の終戦記念日を迎えることになる。国民の大半は戦争を知らない世代である。にもかかわらずいまだに敗戦国としての負の遺産を引き継いでいるのである。近隣国の無分別な要求には、ほとほと閉口するのである。既に国家間で成立した条約まで破棄して、責め立てて来る状態は軌道を逸したものと言える。日本人として共に戦った事実があるにも関わらず、今やその事実は勝手に破棄して戦勝国面をしているのである。まさに理不尽の一語なのである。何をやっても何を言っても、もはや通じない相手に、戦争を知らない世代が、先代の負の遺産を引き継ぐ必要性などないのである。先見の明があった福沢諭吉の『脱亜論 』 が、ここで真実味を帯びてくるのである。お互いに、暫し冷却期間をおき、内政不干渉で事にあたることが一番のような気がするのである。本当に困るような事態が起きれば、どちらかが譲歩して歩み寄って来る筈である。
2014..08.07
今日の中日新聞朝刊 『 新しい「共」の創造こそ 』 を読んで・・・東大の経済学者と論説委員の対談記事に目がとまった。グローバル人材育成に関する教育界の内容であった。水と油のような関係を研究するとあるように難題であり、簡単には結論の出ない事項をすっきりと回答する経済学者の対談に驚嘆したのである。教育に実利を取り込むことの危険性、計画教育を目論む政治の介入の危険性、子どもの多様性をそぐ PISA (学習到達度調査) の過度の期待、小学校低学年からの英語教育の導入の問題、道徳や芸術は地域によって異なることから、尺度を一つにしてはならないこと、「人物本位 」の推薦入試は偏った人選なる危険性・・・・など等全く同感である。ただ一つだけ大きな違和感を感じた内容があった。それは埋もれた才知の文面の中で述べているアウトサイダー・アーチストの件は疑問符がつくのである。海外で作品が400万で売れたのに日本では・・・・の見識は素人の域を出ていないのである。芸術は市場価値で見てはいけないのである。また芸術は複雑多岐に渉るもので、簡単に言い切ると本質を見失ったり、誤解を生じることが多くなるものである。そこが経済学者らしい所見だなあと垣間見たのである。専門外の領域に踏み込む研究は余程の博識でないと粗が露見してしまうものである。話言葉で終わる場合は聞き流せることでも、新聞記事として文面化すると、その粗が拡大してしまうのである。せっかくのよい話も一言で興ざめてしまうことになりかねないのである。これは私自身にとってもよい勉強の機会となった。
2014..08.23
日本の新聞メディアは、体制批判を基幹とした新聞社や 保守(国粋)的記事を基幹とした新聞社、あるいは経済を中心にした新聞社などがありで、多彩化している。民主国家としてはあるべき姿であろう。某国のように新聞社全てが体制寄りの新聞社ばかりでは、とても民主国家と言えるものではない。言論統制が暗黙の内に存在するようでは自由な記事は書けないはずである。その点で言えば、日本は幸せな国家と言える。しかし、そのメリットが逆に作用するととんでもないデメリットを生むことにもなるのである。記事は自由に書けるといっても、度を越して捏造してしまっては何にもならないのである。そこには節度があり、責任があることを忘れてはならない。そこを見間違えたのが某新聞社である。30年以上も捏造記事をほったらかしにしてきた責任は重大である。新聞欄の片隅に小さく訂正記事を書いているが、それで済む問題ではないのである。国益を大きく損ね、国民を欺いたこの記事(慰安婦問題)は、取材の自由とか表現の自由と言って済まされることでは決してない。我々日本国民は自由を満喫できる環境にはあるが、そこには前に述べた節度と責任が伴うことを忘れてはならないのである。
2014..08.31
安倍改造内閣について思うこと・・・・政権を奪還した自民党は、一枚岩となって取り組んできた結果がここに現れている。この間、大きなブレもなく、しかも閣僚の不祥事や失言もなく (贔屓目で) 施行できたことは近年稀に見る快挙であると言ってよいであろう。全ての政策がよかったと言うわけではないが、キャパシティー内での結果であったということである。全ての人々が共鳴できる政治などは、ありえないことから考えれば、現政権は先ず先ずであったと評価したいのである。紙面を賑わしている支持率は低めではあるが、これとて不確実な結果であって当てにはならないものである。あまり気にすることもないであろう。また近隣諸国(特亜)では、極右派政権として牽制しているが取るに足らない誹謗であり、あまりむきになって反応する必要もないであろう。我が国にとってよかれと思う政策を臆することなく、一路邁進してほいしものである。国民の大多数は安心して任せられる政権を願っているはずである。一億総政治評論家の時代にあって、これこそプロの政治と言われるような政治を目指してもらいたいものである。今の時代、一人の政治家でできる力は、それこそ高が知れているものだ。党派、党人、閣僚、スタッフ等のブレーンの結集が身を結ぶものである。その結果は代表者である総理(首相)にすべて総括されるが、個利個略に走るとその実現は難しくなる。一枚岩の団結こそが安定政権に繋がるのである。前回の教訓を忘れずに取り組んでもらいたいものである。それにしても今回の組閣人事の目玉である女性閣僚の登用は、取ってくっ付けたような感が拭えないと感じたのは、私だけであろうか。グローバル化の風潮ではあるが、日本人としてのアイデンティティーがそこまで進化していない現状において、やや尚早に感じたのである。女性の能力を過小評価したのではなく、まだ馴染めない素地が日本には、頑としてあることに躊躇するのである。うまくいけば、その懸念は払拭するのではあるが・・・・・
2014..09.09
昨日、所属する公募団体の部展(日本画部)に参加するために20数年ぶりに、会場である東京(銀座)に出かけた。銀座5丁目にある貸しギャラリーでの開催であった。そこにはかっての銀座のイメージがまるで見られなかった。これが日本の商業中心地と言われた銀座なのかと目を疑ったのである。私はかっての銀座のイメージはもっと高いものを感じていたのである。その当時の溢れるような活気がまるで見られなかったのである。繁華街の中心地が変わってきたことも考えられる。また私の人生経験による評価の基準に変化が生じてきた結果なのかも知れない。正直に言って、名古屋の街とあまり変わらないものを感じたのである。過大評価をしていた若かりし頃の銀座は、もうないのだとがっかりするとともに、反面安心した気持ちになったのである。今はどこにいても寸時に情報が手に入る便利な時代であり、東京も今や憧れの街ではなくなってきているのである。銀座で展覧会をやっても、名古屋でやっても中身は大して違わないのである。ただ、多少は行き当たりばったりのお客は多いかも知れないが、それもあまり期待はできないのである。社会全体が余裕を無くしている時代にあっては望むべきもないのである。たとえ客が誰一人も来なくても、あるいは絵が全く売れなくてもたいした問題ではないのである。独り善がりかも知れないが、その展覧会の反省こそが次ぎの創作のモチベーションに繋がるのである。時には満足する展覧会であったり、反対に散々な展覧会であったりするものである。その機会を多く重ねることによって、作家としてのアイデンティティーが確かなものになっていくものであると、自問自答をする東京銀座詣でであったような気がするのである。また私としては、この部展よりも本展の大作に賭ける意気込みの方が趣が深いのである。
2014..09.16
ウクライナ情勢で国際社会から孤立化するロシアについて思うこと・・・・米国をはじめとする西欧諸国から散々ボイコットをされながらも強硬姿勢を崩さないロシアには憎憎しさを感じながらも、反面羨むものを感じるのである。その中においてプーチン大統領のぶれない姿勢は、国際社会においては稀なる、あるいは特出すべき存在として映る。世界の警察と言わる米国が、最近内向きになり、弱弱しく感じるのに対して余計目に付くのである。G8サミットからも外され、経済制裁をされても、何のその・・・・自国の主張を曲げない姿勢は実にあっ晴れとしか言いようがないのである。日本の首相にしろ、米国の大統領にしろ、周りの意見に振り回されてしまい、傀儡発言ばかりをしているのを見ると、かえって頼もしく思えるのである。どちらが民主政治かと問われれば、返答の仕様が無いのであるが、ともかく頼もしいのである。日本は特に 『 気配り 』 という言葉があるように、自分の意見より周りの意見を大切にする国では、見習う必要があると思うのである。「イエス」、「ノー」 がはっきり言える普通の国家になるためには、是非とも必要なのではと・・・・
2014..09.24
ここ一週間体調を壊し、発信力が弱まったなあと自分自身で感じていたのではあるが、主要検索エンジンを見ると、やはりと言うか、その結果が大きく出ている。余程の有名人でない限り、検索数はあてにならないことをどこかの専門誌で読んだことがあるが、それにしても私のような一介の人物においても、それがあるのかと内心びっくりしたのである。4〜5日で大きく変化をしているのを見て、恐怖に近いものを感じたのである。顔の見えない、実態のない数字だけに気にしなくてもよいと自身に言い聞かせてはいるものの、やはりと言うか拘ってしまうのである。外に向けて発信している以上、その反応を知りたいと思うのは人情である。そしてその反応を知る手立ては、現時点ではこのサーチエンジンの検索数しかないのである。ロボット検索の場合は、流れている情報の内容やその意味まで捉えられないことや、その他の相互の関連までは把握できないことなど十分、分かっていても気になるものである。その数値が増えていると、内容の良し悪しは別として安心するところがあるのである。この罠にまんまと嵌ってしまった自分自身に嫌悪感を覚える今日この頃である。
2014..09.29